<   2017年 01月 ( 50 )   > この月の画像一覧

ベストを尽くす

何事にも、逃げないで立ち向かい、ベストを尽くす。
困難を乗り越えて、それを人生の糧とする。
辛いこと、苦しいことから逃げないで、乗り越えていったほうが、人生はおもしろい方向に転がっていきます。
人生の中では、想像もできないような大きな試練の波が襲いかかります。
逆らえないような苦難の大きな渦に呑み込まれます。
そうした意味で一寸先は闇です。
そうした試練や苦難というものは、悲しみ、苦しみ,淋しさとともにやってきます。
試練や苦難と闘っているときには、無我夢中です。
必死でもがき苦しみます。
絶望のどん底に堕ちていく人もいるでしょう。
乗り越えていけるかどうかも判りません。
そうして何事にも立ち向かい、一心不乱にベストを尽くすのが私達の人生です。
人智を尽くして天命を待つ、とはこのことです。
そして幾つもの試練を乗り越えていくから、人の抱えている痛み、苦しみ、悲しみが判るようになります。
本当の意味で、人間が大きくなります。
様々な試練を乗り越え、いろんな経験を積んではじめて、わかる世界があるのですよ。
それが人間世界です。
人間世界には、逆らえないような現実も起こります。
だから到底、誰にも理解できないような悲しみ、苦しみ、寂しさというものがあるのです。
[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-31 22:16 | Trackback | Comments(0)

信とは

一生懸命に努力して誠を尽くすことを「信」といいます。
赤ちゃんの頃に、両親から一杯愛情を注がれて育った子は、人間の一番大事な「信じる心」の基本が育ちます。
信とは、信頼の「信」です。「ラポール」とも言います。
信頼の心は、人間関係の基本です。
心の絆がなければ信頼の心は生まれません。
人を育てるには、知識よりも、感銘を与えることです。
感銘を与えるより、実践してみせることです。
そして、時間や感動をともにすることで、絆が深まり、目標や物語、ストーリーを共有することで仲間意識が強まります。
時間を共にすること、これは人間関係で一番大切なものです。
同じ屋根の下で、共に過ごす家族、夫婦の絆が一番深くて、強いものです。
本気で愛して、共に人生を歩むのですから、これ以上の絆の深い関係はありません。
何月も、逢うこともなく、時間を共にすることのない関係は、自然と縁が薄れていきます。
友人であれ、恋人であれ、月に1度ぐらい食事を共にする関係を維持しないと、縁が薄れていきます。
一緒に行動して、時間と共感を共有しないと、絆は薄れていきます。
これは宇宙の法則であり、絆の法則でもあります。
ともにあるということが、絆にとって大事な要素です。
人生の目標を共有するのが夫婦です。
ともに助け合って,支え合って、人生を共に歩むのが夫婦です。
運命共同体の意識がないと、夫婦の絆は薄れていきます。
その根底にあるのが信頼する心です。
人を動かし、やる気を起させ、成長させるには、その者に仕事を任せることが必要です。
大丈夫かな、まだ無理かな、と想っていても、思い切って任せてみるのです。
任せるということは、信頼の証です。
信頼されている、と感じる心は、意識も能力も別次元となります。
信頼して、任せて、本気でやらせると、人は格段に伸びていきます。
ここで一番大事なことは、何を誰に任せるかということです。
人を見抜く力と洞察力も必要ですが、何よりも大切なことは、信頼する心を全人格で伝えることです。
信頼の心は、神が人間社会に与えた大切な心です。
感謝の心とともに、なくてはならない心です。
信頼の波動は高次の波動であり、物事が成就へと向う波動です。
信頼の心で行う営みは、光の道につながる営みです。
信頼し合う人間関係の中で事が進められるとき、すべてが良い方向へと向うのです。
信頼の絆ほど強いものはないのです。
人間は信用、信頼を失うと、もう誰がどうしようと、誰も相手にしてくれません。信頼の心は、神の光なのです。
神の光を失った者は、世の中を渡っていくこともできないのです。
愛の心と信頼の心は、兄弟の心です。
信頼のない愛は存在しないし、愛のない信頼も存在しません。
愛を失うということは、信頼を失うことです。
信頼を失うということは愛を失うことです。
神の愛は、別の言葉で慈悲といいます。
慈悲は大慈、大悲の心です。
ですから神の愛には、やさしい愛である大慈の心と、厳しい愛である大悲の心があります。
神の心は、大慈と大悲を結ぶ愛心です。
やさしいことばかりが愛ではありません。
厳しい試練も神が与えた一つの愛の形です。
やさしい愛ばかりでは、現実として、人間社会は成り立ちません。
やさしい愛と厳しい愛がバランスよく調和していることが大切です。
溺愛して甘やかすばかりで、人の道を教えないのは、愛ではありません。
人生という険しい、厳しい、苦難と試練の織り成す道を、乗り越えていくために、共に助け合い、支え合って必死に生きるのが人間世界です。
そうした中で、他者の幸せを願う心の中に、そこに真の思いやりと愛が生まれます。信頼の心で結びあい、愛の心で結び合っていると、すべてが円満に成就していきます。
感謝と信頼の心にひびが入ると、波乱万丈へと運命が転換していきます。
古流神道の手当法、波動治療では、相手との信頼の心がなければ成立しません。
心の作用が成否を分かちます。
心の作用とは、ラポール関係にあるかないかということです。
波動治療の世界では、治療家と患者がラポール関係で結ばれていると、少なからず奇跡が起こります。
ラポールの心、信頼の心は、大宇宙の調和を誘う心だからです。
信頼の波動は、物事をよい方向へと導き、事を成就させる波動なのです。
何かしら、物事が意図した方向に進まない時や、想像しないことが生じる場合には、信頼の心というものを見つめ直すと良いでしょう。
人間関係を良くする魔法の言葉も一杯使いましょう。
夫婦関係を良くするには、ありがとう、ごめんね、を多用することです。
ありがとう、ごめんね、という魔法の言葉が足りないと、夫婦関係も悪くなります。
これは本当のことです。
やはり「笑顔ニコニコありがとう」が一番です。

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-30 13:53 | Trackback | Comments(0)

不寛容な社会の到来

最近、不寛容社会の到来という言葉をよく耳にします。
首都圏のマンションでは「あいさつ禁止」の張り紙が貼られ、マンション内でのあいさつを禁止する運動が起きているそうです。
見知らぬ人に声かけられて、連れ去られるという事件が多発していることが「あいさつ禁止」運動の要因だそうです。
人間関係の第一歩は日常のあいさつからなのですが、このあいさつを禁止するというのですから、皮肉なもので、そうした世相に何か根の深い闇を感じます。
「こんにちは」「おはようございます」でよい近隣関係が築けるのですが、こういうあいさつを一切禁止して、無関係に生きるというのですから、その不寛容さは尋常ではありません。
不寛容さの例はまだまだたくさんあります。
自分さえよければよいという身勝手な人が多いからでしょうか、近所に幼稚園や保育所が建設されることに大反対する住民が大変多いのです。
キーキー、キャーキャーと子供の声がうるさいというのが理由だそうです。
幼児の元気な陽気な声は、実に微笑ましく、周りを元気にしてくれるものなのですが、うるさい、やかましい、うっとおしいとして、建設に大反対するというのです。
こうした不寛容な社会の実例は枚挙に暇ないのですが、そういう世の中になってきているということです。
古来より、寛容の精神には神が宿ると言われ、寛容の神を崇めてきた日本人ですが、日本の心も大きく変貌を遂げているようです。
米国のトランプ大統領のアメリカ第一主義に見られるように、難民を排除したり、国境に壁を作ったり、自国さえよければよいという経済、貿易の保護主義、排外主義が顕著になりつつあります。
難民を受け入れてきた寛容の精神はどこに行ったのでしょうか。
自由の国の象徴である自由の女神像もきっと泣いていることでしょう。




[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-30 12:50 | Trackback | Comments(0)

運命上昇の法則

明るく楽しく、陽気で愉快な感情で物事を記憶すると、どんなに鈍才な人であっても、秀才にもまけないような記憶力を発揮できます。
明るい感情というのは、記憶がのって忘れない記憶となります。
好きこそ物の上手なれという言葉がありますが、好きで楽しいという気分があると、記憶力は格段にアップするということです。
嫌々義務感で勉強していても、記憶に残りませんので、非常に効率が悪いのですよ。
「ピピピありがとう」という言霊を繰り返し唱えながら暗記すると、明るい気分となり、記憶がよく定着します。
「ピピピありがとう」で劣等生も優等生なみの記憶力を発揮できます。
脳と体の動き、働きが一変する秘密の言霊です
「フニャフニャありがとう」と唱えると、その瞬間に身体の柔軟性が倍化します。
屈伸して手を床に付ける動作をして試してみると、その違いがよく判ります。
不眠症の人は床に入ったならば「ふわふわあありがとう」と唱えると、自律神経が整ってよく眠れるようになります。
言霊の波動は魔法の言霊です。
運命上昇の法則というのは、言霊とともに、「ニコニコ笑顔」と「努力の蓄積」です。
「運気」=「ニコニコ笑顔」+「努力の蓄積」ということです。
無愛想で不機嫌な人や努力の蓄積のない人には、運は舞い降りてきません。
これは運命上昇の法則です。
我が流儀の最高マントラ「笑顔ニコニコありがとう」で命懸けで必死に努力していると、運命も人生も好転し、拓けていきます。







[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-30 10:49 | Trackback | Comments(0)

瀬織津姫と天照大神

縄文時代の女神であり、水の神、滝の神が瀬織津姫です。
瀬織津姫は、縄文時代の全国各地で祀られていたようです。
天智天皇の御世に天照大神が伊勢神宮の祭神として祀られる前は、瀬織津姫が伊勢神宮の主神でした。
清らかなる水の神です。
その波動は、滝から流れ落ちる清水の冷ややかさを感じます。
瀬織津姫の化身が天照大神です。
私は、色紙によく神代文字で天照大神の御神名を書きますが、色紙に手を近づけると、冷たい霊水、滝のような波動が強く感じられます。
霊能力のあるものもみな、滝の冷水のような波動を強く感じるといいます。
天照大神は、水の女神なのです。合掌

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-29 13:08 | Trackback | Comments(0)

桜の花の心

今日は、日本人の大和心について綴っていこうと思います。
日本人の心を理解するには、失われつつあう武士道を知る必要があります。
わが五心朝天法は、独自に心の法則、魂の法則を説くものですが、武士道の精神と共通点が多いです。
武士道とは、恥を知り、是非を知り、羞悪を知り、惻隠を知り、礼儀を知り、思いやりを知り、誠実であり、慈悲の心をもつ心が武士道です。
一言でいうと、四端の心と表現できます。要は正義心の獲得です。
わが流儀の根本をなす精神もまた四端の心です。
四端の心は、武士道でいう仁義礼智信の実践です。
ですから武士道と、古流神道の奥儀とが同一ということとなのです。
武士道は、戦い、争い、戦争などの残忍な行為を繰り返す武士の掟です。
その殺人のプロである武士の掟が、神道と合い通じるところがあるのですから不思議です。
桜は日本特有の美しい花ですが、武士道は桜の花にとても似ています。
一言でいうと、桜の花は美しく散りぎわがよいということです。
日本人は、いさぎよい人をよしとする民族なのでしょう。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」であり、死に際を心得ているのが武士です。
死ぬべきときには潔く切腹して死ぬというのが武士です。
私達の心の中に、連綿として生きて、私たちの判断の道を照らすもの、それは何でしょうか。
連綿と続く精神世界の記憶が、私達の魂の記憶として刻印されているのですよ。
日本の道徳は、武士道と、仏教や儒教、神道などが複雑に絡み合ってできています。
それが恥の文化の背景となり、日本人の心となり、日本独自の精神文化と美徳を生み出しています。
四端の心の第一番目が「惻隠の情」であり、これは仁です。
あとの3つは、「是非の心」「羞悪の心」「辞譲の心」であり、これらは義に属する心です。
何が正しくて、正しくないかを見極め、恥ずべきことは絶対に慎むというのが武士道精神です。
仁とは愛心であり、他者の苦境を見過ごしにできない心です。
そうした日本の精神が、私達の魂の記憶となって受け継がれいます。
ですから日本人は武士道に憧れるのです。
日本人は誰でも、仏教や儒教、神道の教えに魂が反応するのです。
日本人の心を一言で言うと、素朴な正義感です。
世界のどこの国の人々よりも、正義を愛する民族、それが日本の人々です。
どんな戦争も残忍で間違った行為ですが、その大きな間違いの中にも、美徳を生み出しつづけたのも日本の武士道です。
これもまた真実なのです。
人を殺戮する戦争は残忍です。
ネアンデルタール人のように、草原で他部族と遭遇し、敵と見なすと、もう相手は人間ではありません。
相手をとことんやっつけて根絶やしにして殺戮します。何の躊躇もありません。
殺戮の上手な者は讃えられ、英雄となるのがネアンデルタール人の世界です。
10万年前のネアンデルタール人は、人類の祖先ですから、人間はみなこのような動物的本能、獣の本能を受け継いでいるのです。
環境によっては表にでてくるのが人間です。
気高い精神がなければ、人間は残忍な殺戮者になってしまいます。
世界中の紛争地帯を見るとよく判ると思います。
武士の時代は、戦国時代という時代背景の中ですから、戦争は仕方のない時代でした。
そんな中でも、勝てばどんな勝ち方でもよいということではありませんでした。
殺戮だけの戦争では、武士道の気高い精神は生まれてきませんでした。
殺し合いにも、ルールがあり、潔さがあるのです。
事にいたって、生に執着せず、死を恐れないという武士道精神は、たゆまぬ努力精進がなくては、生まれるものではありません。
日常の努力精進が心をつくるのです。
仁義礼智信の実践です。四端の心の実践といってもよいでしょう。
自分がかわいいと、生に執着して、こわくなります。
大義がないと、生に執着して死がこわくなります。
小我を捨てて、大我に生きないと、自分というものを捨て去ることなどできません。
武士道精神に生きた人こそ人生の達人です。
いざというときには、命を捨てる覚悟ができているのです。
普段は、運命を受け入れて、静かに暮らし、危難に遭遇しても,平静を保ち、事が起きると、生に執着せず、死を受け入れる、これが日本の心、武士道精神です。
死を覚悟して、事に当る。
潔くて美しいですね。
死中活あり、です。
何も死ぬ必要はありませんが、死んだつもりになって事をなせば、たいがい道は開けるのです。
あらゆる現象の奥底にある原理、宇宙の摂理、自然界の玄理にたどりつこうとして、先人たちは、武士道に励み、仏教、儒教、神道に学びました。
中には、究極の絶対的なものが判った、悟りを開くことが出来たと、表明する者たちも宗教世界の中で数多現れてきました。
即身成仏だとか、因縁離脱したと言って、悟りを開いたというのです。
それは否である。偽り、錯覚です。
宇宙の理を突き止めるのが五心朝天法の極意ですが、生身の人間はたどり着くことなど出来ません。
悟りとはたどりつく目標であり、悟りを開くことなど永遠に誰もできません。

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-28 11:25 | Trackback | Comments(0)

日本の心とは

国土とは、単なる土地ではなく、先祖の霊の神聖な場所,住処である。
天皇は、国家の象徴であり、地上における天の代理人であり、その人格の中に天の力と慈悲を兼ね備えた存在です。
日本人が先祖を敬い、皇室を敬うのは、神道の教えのお陰です。
権威があるだけでなく、国民を一つにまとめたものであり、国民の象徴であるのが皇室、王室です。
神道の教えには、愛国心と天皇への忠誠心が含まれています。
だから神道は、宗教というより、日本人の心というものでしょう。
神道は、武士道の中に、忠誠心、愛国心、人の道を叩き込み、行動指針を叩き込みました。
武士という野蛮で残忍な殺しのプロが、神道の教えにより、気高い武士道精神をもった人格者となったのです。
この神道の流れを組む武士道精神が、日本人の心に受け継がれて、日本人の心の土台となっているのです
孔子と孟子の教えも、武士に大きな影響を与え、陽明学の言行一致、知行合一が重視され、知っているだけでは、蔑まれ、行動が伴ってはじめて認めあれる風潮となった。
学んだことを実行する儒学の教えも、武士道に大きな影響を与えています。
こういう精神風土が日本人の心に色濃く残っているのです。
ですから日本では行動の伴わない口先だけの人間は軽蔑され、軽んじられる風潮が生まれました。
日本人の心をつくってきた基本原理は、仏教、神道、儒教、武士道精神など数少ない玄理です。
こうした玄理が、人生の確かな規範を与え続けてくれました。
五心朝天法の基本原理は、さらに遠く2000年の悠久の歴史をもつもので、古流神道の教えに依拠しています。
縄文時代の女神、瀬織津姫から、弥生時代の卑弥呼の時代を経て、平安、奈良時代と受け継がれてきたのが正統な古流神道です。

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-27 19:27 | Trackback | Comments(0)

義とは人の道

義は、人の道である。
義は誠実と正義心を示し、日本の心の土台となる教えです。
日本の規範の中で、最も厳格な道徳が義です。
戦いのプロである侍は、卑劣な行動、不正な振る舞いを嫌悪し、恥としました。
正々堂々というのが武士道精神です。
卑怯な振舞い、姑息な行動を忌み嫌いました。
義とは、自分がどのような行動をとればよいか、道理に従ってためらわずに決断する力です。
死なねばならぬときは潔く死ぬし、戦わなければならないときには、戦うということです。
これが義というものです。
正義心をもって生死を越えた心ということです。
義とは、正義のことですが、一面では、決断する力を示します。
武士が大事にしなければならないのは、節義であり、誠実、正義であり、これらは人の土台となる教えです。
いくら才能や学問があっても、土台がないと、無に等しいということです。
人間の土台は、誠実、正義であるということです。
まず人間を観る時には、正義心である義を観るということです。
孟子は、仁は人の良心、義は人の道なり、と説かれています。
義は人の道であり、忠孝の道であり、尊敬の象徴です。
ですから47人の赤穂浪士の受けた義士という呼び名は、どんなものにも勝る名誉でした。

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-27 13:52 | Trackback | Comments(0)

正義の勇

勇とは忍耐であると言ってきました。
勇気は、いざという時の大胆さと、忍耐の精神を示しています。
そして勇には、大義の勇と、匹夫の勇があるということです。
勇気は、正義のために使わなければ、蛮勇となり、値打ちがありません。
ですから、武士は是非の心、善悪を見極める心を大切にしました。
孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と説き、正義を行わないのは、勇気がないからだと云っています。
つまり、勇気とは、正しいことを実行することです。
値打ちのないことに命を賭けるのは勇気ではありません。
武士道の教える勇気とは、正義のために命をかけるということです。
水戸黄門は、恐れるべきことと、畏れるべきでないことを区別するのが勇気である、と云っています。
大義の勇とは、正義の勇気であり、匹夫の勇とは、浅はかな血気にはやる勇気のことです。
正しい事を行える勇気ということが、人間の品格を決めるものです。

[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-27 10:17 | Trackback | Comments(0)

武士道精神と勇気

何事も耐え忍び、我慢をして努力し続ける人が一番強い人です。
本当の勇気は愛の中にあると以前言いましたが、さらに言うと、勇気とは行動を起こすことではなく、耐え忍ぶことである。
本当の勇気とは、忍耐とともにあるということです。
愛と勇気と忍耐とは同義語ということです。
四端の心の実践は、仁義礼智信の五倫と、勇気・謙譲の実践です。
これまでにも義と勇について、綴ってきました。
勇についてもう少し綴ります。
武家の母は気丈です。
父は万丈の気骨と気迫で武士道精神を体現します。
武家に生まれた子は、幼少より武士道精神を叩き込まれます。
母親は、幼子が何かの痛みで泣くと、侍の子が、この程度のことで泣くとは何という臆病者でしょう。
戦いで腕を切り落とされたらどうするのですか。
切腹を命じられたらどうするのですか。と𠮟ったという。
このような忍耐の教え、厳しい躾を受けて、胆力を鍛えられたのです。
真の勇気には、忍耐の精神が必須だからです。
忍耐も我慢もできない人というのは大した人ではありません。
真の勇者というのは、耐え忍ぶことを知っている人のことを言います。
ですから、武士道精神とは耐え忍ぶ心のことを言います。
そして、勇気には、沈着冷静さが必要です。
本当に勇気のある人は、常に落ち着いていて、決して驚かず、心を乱さない。
怖気ずこわがらずです。
武士道が讃える偉大な人物とは、死に直面して、うろたえず、差し迫った危険の中、詩を作り、歌の一説を口ずさむような人である。
死を目前にしても、字にも声にも何の乱れもない態度こそ、武士道精神として尊敬されました。
沈着冷静さこそは、勇気の象徴です。
勇気のある人は、もの静かな人なのです。
侍は、たとえ戦いの相手でも、優れた人物には敬意を払いました。
なぜなら、勇気と名誉を重んじる侍は、平和な時なら友人とする人を、戦場の敵として戦わなければならなかったからです。
勇気は気高い心であり、決して蛮勇というものではありません。
[PR]
by toukokira-kira | 2017-01-27 10:07 | Trackback | Comments(0)