眼前の空間には、無限数の平行現実が存在しています。平行現実が私達と共存しています。ただ私達がそれらに周波数を合わせられないだけです。次元の異なる世界が無限に広がっており、私達が認識できないクオーツ、タキオンなどの素粒子の世界などが存在しています。人間の五感ではキャッチできない波動世界のエネルギーなど、異次元のものがたくさんこの空間には存在しています。波動エネルギーの情報は無限です。何億兆個もの波動が交じり合って、森羅万象のごとく情報が変化し、動いています。人間の脳も超高速で動いています。脳が感知する情報は、1秒間に4000億ビットです。そうした情報の中から必要なものを瞬時に選択して、分析し、実際に使っていく情報の量は僅かです。1分間に40兆~50兆の情報量が、この自然界には飛び交っています。そのうちの僅か数個の情報を選び取って、処理しているのが脳です。潜在意識といってもよいでしょう。無限数にある情報の中からある法則にしたがって情報を選択しています。潜在意識が選び取った情報以外の膨大な情報は、捨て去られます。脳は法則に従って選び取った情報以外のものは全く認識しようとはしません。脳が認識しないものは、存在しないことと同じです。ですが、この世界には、次元の異なる平行現実が無限数で重なり合って存在します。自分たちの世界以外の異次元世界があうということです。さて、人間にとって一番大事なものは、思考と感情です。思考と感情が命運を分かつのです。この人間の思考は、また不思議なものです。人間は考える葦ですから、たえず何かを考えています。人は、1日にどのくらいの頻度で思考を繰り返しているのでしょうか。聞いてびっくりです。最近の脳科学の研究によると、人間は誰でも6万回~10万回の思考を繰り返しているのだそうです。本人はそう想っていませんが、実際にそうなのです。思考の99%は潜在意識という心が無意識に思考しています。自分では数えるほどの思考回数と想っているのですが、現実は膨大な数を思考しています。思考回数は天文学的数字です。そうした思考を繰り返しているのですが、新しい思考は皆無で一つもあいません。魂の記憶にないものは選び取られることはありません。魂の記憶に附合する情報が自動的に選択されているのです。潜在意識のフィルターにかかるのは、魂の記憶情報と同じものばかりです。いわば思考は、過去の繰り返し、昨日の繰り返しです。何故ならば、魂の記憶に基づいて、思考を選択しているからです。思考習性が魂の記憶です。魂の記憶にないことは決して選択しません。魂の記憶に従って、自動的に、6万回の思考の中から、必要な思考を選択しているのです。すべて過去世の魂の体験の記憶と符号する思考が、自動的に選び取られているのです。その意味で、人間の思考は過去世の繰り返しなのです。これを因縁といいます。因縁が邪魔して、新しい思考、行動が取れないのです。思考が現実をつくるのですから、過去世と同じような現実を歩みます。波動世界では、無限の次元界が存在し、平行現実が並存しているということです。そして人間の思考は、過去世からの繰り返しということです。あなたの隣に神の世界が存在しているということです。見えないだけ、認識できないだけです。











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by toukokira-kira | 2014-05-31 20:29 | Trackback | Comments(0)

一意専心

一意専心とは、真実の道に向うためには大切な心です。わが身、わが心の一切を、今自分が直面していることに捧げ尽くす。真実の道はそうした一意専心のときに開かれてくるものです。二頭追うもの一頭を得ずです。一つのことに、一筋に向うものの強さ、美しさがそこにあります。花が美しいのは、迷うことなく、一筋に花を咲かせるからです。白い花は白い光で輝き、赤い花は赤い光で輝きます。一筋に、まっしぐらに生命の輝きを放っています。花の命は短いけれど、光芒一閃、真実の光を放って、散っていきます。花は自分の使命を悟っているから、迷うことなく、一筋に花を咲かせます。人間の人生もかくありたいものです。自分の人生の使命を悟り、自分の道に向って、迷うことなく、一筋に向っていける人が何人いるでしょうか。多くの人が、迷い行く人生です。花のように、一筋に、自分の道に向って、進んでいきたいものです。日本人がよく使う「誠」とは、己を尽くすということです。己を捧げ尽くすということが誠です。自分の全信念を傾けて取り組むということです。誠という言葉は、日本のよい言葉だと思います。一意専心には、誠の心があり、誠の志があるから成り立っている言葉だと思います。

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by toukokira-kira | 2014-05-31 10:26 | Trackback | Comments(0)

少子化と町村の消滅

元総務大臣の増田さんのグループが衝撃的な調査結果を発表しました。今後の少子化によって、日本の人口は激減し、2040年には、現在の1800ある自治体の半分の896自治体が消滅の可能性ある自治体と発表されました。北海道の自治体の8割以上が消滅の可能性のある自治体となっています。人口1万人を切る自治体も全国で520を数え、日本の自治体の有り様が根本から問われはじめています。その理由は、子供を生める女性人口の半減の影響だそうです。20代、30代の女性の人口が半減すると、2040年には、自治体の半分が消滅する可能性が大きいという調査結果です。これは衝撃的な話ですが、2040年に町がなくなるという話は現実かもしれません。現在の日本の出生率は、1,41倍です。東京は1,09倍です。大都市ほど出生率が低く、子供を生み育てる環境にないことが判明しています。このままでは人口を維持していくことは難しく、人口は将来、3分の一程度に減少します。人口問題をさらにややこしくしているのが、大都市での75歳以上の人口の大爆発的な増加です。医療、介護は全く足りない状態になります。末恐ろしいですよ。この問題を解決していくためには、少子化対策に全力を上げて取り組むことです。20代の結婚率が現在40%ですが、これを60%に引き上げていけるような対策が取れると、それだけで出生率が1,80倍になるそうです。出生率が1,80倍になると、人口が維持できるそうです。子供を生むことができる女性人口の8割が、2人以上の子供を持ちたいという希望が出ており、未婚の女性を少なくするような対策が急務です。少子化対策は、日本の政治の大問題となっています。
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by toukokira-kira | 2014-05-31 09:40 | Trackback | Comments(0)

立志照隅

人生の意義は、立志の一語につきます。志を立てるということは男子、一生の一大事です。立志照隅とは、志を立てて、自分の四隅、周囲を自分の光で照らすということです。与えられた環境の中で、一生懸命に頑張って、花を咲かせよう、人の為に少しでも役立つ人間になろうという意味です。与えられた環境がたとえ逆境にあっても、逆らわずに、むしろ受け入れて、従うことで、新たな道が開ける、物事が通じていく、と易経に書かれています。無心の心で、自分の周囲を自分の光で照らすことのできる人間になろう、ということです。無心の心とは、己を捨て去った心です。己を捨てるということは、利欲を捨てる。執着、囚われの心を捨てるということです。己を捨てたところに、真我があり、大我の心があります。人は誰でも自分が可愛いので、自分を捨てることなどできません。自分が可愛いから、人を責め、非難し、怒り、憎みます。自分が可愛いから利欲に走ります。己というものを一端捨て去らないと、心はがんじがらめです。大我とは、己を捨て去って、他者や社会のために奉仕し、尽くす心のことです。人の為、世の為に生きようとする尊い心です。人間の価値は、この二度と来ない人生の意義を、いかほどまでに自覚するか、その自覚の深さに比例するといっても過言ではありません。人生の意義を自覚するには、自分というものを、自覚し、認識する必要があります。ありのままの自分を、ありのままに認めることが必要です。ありのままの自分に出会えると、大いなる存在と繋がります。大いなる存在と繋がると、迷うことなく、自分の歩むべき道を進むことができるようになります。人生には、幾つもの試練が待ち受けています。幾多の困難、苦難に遭遇します。人生には、山あり、谷あり、嵐ありです。晴れの日もあれば、曇りの日もあります。乗り越えていく壁は高く、連なります。こうした試練、困難を体験し、乗り越えて、克服した経験のみが、自分をつくる支柱となります。自分が体験し、体得し、それによって気づいた事、或いは解決したことのみが、真に自分の力となるのです。その意味で、苦境、苦難は、大きな変化のためのチャンスなのです。古流神道では、苦難を乗り越えていく心を不動心といって、最高の心として位置づけられています。自分の人生、運命を変えていけるのは、不動心だけなのです。不動心によって、自分を変え、未来を変え、世界を変えることができるのです。試練、苦難に真正面から立ち向かい、挫けず、負けないで、乗り越えていく、苦しみや悲しみを乗り越え、それを人生の糧にしていく生き方が不動心であり、唯一の運命好転の方法です。人生では、志を立てるということが一番大事です。優れた実践や経験の背後には、必ず一つの思想信念が存在します。志のない人間に大きな仕事をなすことができません。志があって、事の捉え方がよくて、失敗を成功以上に活かす人間こそ、真に畏るべき人間です。
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by toukokira-kira | 2014-05-30 22:01 | Trackback | Comments(0)

尖閣問題

反欧米国家連合というものがあるそうだ。イラン、中国、ロシアが手を結び、世界のルールを自分たちに有利なように変えようと画策しているというのだ。あわよくいけば世界を自分たちの手で牛耳ろうとしているのだ。習近平とプーチンが幾度となく首脳会談を繰り返し、中ロで軍事演習まで行っています。そして、中国は、南シナ海や尖閣の海と空を盛んに荒らし回っています。根本にあるのは、海底資源の争奪戦です。13億人の人口を抱える中国にとって、13億人が十分に使えるエネルギーの確保が緊急の課題です。海底資源を押さえて、今後に活用していくということが、中国の方針です。エネルギーの争奪戦に敗れたものは、今世紀の未来はないのです。熾烈なエネルギー獲得競争が始まっているのです。12億人を抱えるインドも同様です。先日、オバマが来日し、尖閣諸島について、リップサービスしておりましたが、楽観は少しもできません。日米安全保障条約第五条の適用範囲内にあると明言し、日本の外交的勝利という論調が目立ちますが、平和ボケです。資源争奪戦は、そんなに甘いものではありません。中国の国内景気の停滞とともに、海底資源にこだわる中国の必死さが伝わってきます。中国も大変なのです。このままでは未来も、将来もないのです。中国国内では、習主席を狙ったと見られる、テロが発生するなど、大揺れの中国です。経済の悪化も深刻化し、輸出や内需も低迷し、不動産の下落も地方都市から首都北京へ波及しています。ベトナムと領有権を争う南シナ海の西沙諸島周辺、パラセルで中国公船がベトナム公船に体当たりした映像が公開されました。昨日は、両国の漁船同士が衝突し合って、ベトナム船が沈没するという事件が起こりました。ベトナム国内では反中国の暴動にまで発展し、中国人が死亡する騒ぎもありました。このように、ベトナムと領有権を争う南シナ海で、強引に石油掘削を始めた上、ベトナム船を追い払うために、中国公船が何度も体当たりしたのです。これは他山の石です。軍事力を背景とした中国のやり方には、ベトナムも、フィリピンも、日本も危惧の念を抱いています。中国の軍事費は14兆円で群を抜いています。日本が5兆円ですから3倍の軍事費です。日本と、フランスと、イギリスの3国を合わせた軍事費よりも多いのです。世界の軍事費の半分を担う米国に迫りつつある勢いなのです。こうした軍事費を背景に覇権主義的な行動を強めているのです。空から、海から、尖閣諸島に日夜押し寄せてきて、領土侵犯を日常的に行っているのです。世界の軍事バランスも大きく変わりました。世界を支配し、世界の警察と自称していた米国の軍事力も、相対的に弱まってきています。68年前には総数で1200万人いた米軍も、現在は137万人で、10分の一程度に低下しています。日本に駐留している米軍は現在、5万3千人で、60年前の19万人と比べても、少なくなっています。日本の自衛隊は、陸海空合わせて24万7000人です。米軍と合わせて30万人の兵力が日本を守っています。現在、日本では集団的自衛権の解釈変更問題が時の話題になっていますが、こんな当たり前のことが、当たり前でなく議論されているのですから、平和ボケ以外の何者でもありません。独立国家とは、どういうものでしょうか。日本国の国民の生命と財産は誰によって守られているのでしょうか。もちろん国家が国民を守っているのです。国家は政治力です。政治とは、血を流さない戦争です。力なき政治は無力なのです。戦争は、血を流す政治です。国家の安泰と政治力は、備えあってのものです。備えが十分にあって憂いなしなのです。自分の国は自分で守る、自分の国の国民は自分の力で守る、というのが独立国家というものです。別に戦争を推奨しているのではありません。戦争は絶対にすべきものではありませんが、抑止力がないと好き放題にされてしまうでしょう。現代は地球規模のグローバルな時代です。海外げ活躍する日本人は1800万人にも到達するといいます。世界中の至るところに日本人がいて、活動しています。こうした日本人を守ることも国の大きな仕事です。ホルムズ海峡には、日本の3000隻の船舶、タンカーが通過しています。日本の原油の8割はここを通ります。こうした船の安全航行を確保するのも国の大きな仕事です。尖閣の領土を守るという仕事以外にも、守るべき仕事がたくさんあるのです。そもそも中国が尖閣の領有権を主張し始めたのは、1960年代末です。島付近の大陸棚に石油とガスが埋蔵されているということが判明してからのことです。資源エネルギーの争奪戦の一環の行動です。いままでは何にも言っていなかったのですが、機を見て敏なり、恐るべき変身ぶりです。尖閣諸島は、歴史的にみても日本の領土であり、中国の正当性は微塵もありません。領土問題など存在していません。中国の横車に対しては、毅然とした対応が必要です。自国の領土を守れない国は、国民一人すら守れない国家です。このことを全国民が肝に命ずべきでしょう。平和ボケの中途半端な平和を唱える人の多い国柄ですが、独立国家というものの本質をもう少し考えてみましょう。中国の尖閣への主張はこういうものです。尖閣は明の時代の歴史文献に登場しており、琉球国に属しておらず、中国の領土であったという主張です。それが日清戦争(1894年~1895年)に乗じて日本が不当に奪ったのが尖閣諸島だ、と云っているのです。しかし、こうした中国の主張は正当ではありません。明の時代の1561年に、琉球に派遣された使節が、皇帝に提出する上奏文に、正式に、尖閣の大正島の琉球と明記されているからです。明時代からのという中国の主張は正当ではありません。1953年1月8日付けの政府機関紙人民日報では、尖閣諸島は琉球群島に含まれる、という趣旨が記述されています。これについても、当時の人民日報は誤りである、と嘯くばかりです。こうした歴史的な経過を踏まえ、沖縄返還が実現し、尖閣も同時に日本に帰属することになりました。1971年6月、沖縄返還協定前に、米国は、尖閣について、このように判断」しています。尖閣諸島は、日本に残存主権がありと、歴史的経過を踏まえて判断していたのです。返還時のCIAの報告書でも、紅衛兵向けの中国地図でも、尖閣は日本と明記されていると報告されています。尖閣は日本の固有の領土です。明治政府は、1895年に、沖縄を編入しましたが、その時に、尖閣についても、詳細な現地調査を行い、清の支配が及んでいないことを慎重に確認したうえで、閣議決定し、沖縄に編入しています。これは、国際法上の先占といいます。先占とは、いずれの国にも属さない地域を領有の意志をもって実効的に占有することです。国際法上、割譲、併合などとともに、国家が領有権を取得する方式として認められています。このように明々白々にも関わらず横暴が繰り返されています。1951年のサンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、日本が放棄した領土には含まれず、南西諸島の一部として、米国の施政下に置かれ、1972年の沖縄返還で日本に戻りました。米国の施政下では、中国は何も主張していません。恐ろしくて言えなかったのかもしれません。日本は戦争の出来ない国ですからこわくはありません。好き放題です。日米安保がなかったらどうなるでしょうか。中国の領有権の主張は、尖閣周辺の石油資源の可能性が判ってからの1970年代からです。中国はサンフランシスコ平和条約に関与していないので、そこで決定されたことは、認めないという立場です。1895年1月14日、日本の領土として編入された後も、1920年に魚釣島に漂流した中国漁民を助けてもらったとして、石垣島の人々に、感謝状を贈っているが、そこには、日本帝国、沖縄県、八重山郡、尖閣列島、と明記されていました。尖閣列島は、沖縄編入以来、一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であり、国際社会から認められているものです。領海侵入は、中国の理不尽極まりない海賊行為であり、赦されることではありません。しかし、もうすでに領海侵犯は常態化し、日常化しています。中国公船の接続水域への進入の狙いは、管轄権の主張にあると言われています。日本の領土は、1952年4月発効したサンフランシスコ平和条約により法的に確定されたものですが、中国は、それを認めていません。日本の領土は、37万8000平方キロで、ドイツ、ベトナム、ジンバブエ、パラグアイと同じぐらいの大きさです。日本の領土は6852の島からなり、有人島は400程度で、あとは無人島です。海岸線が100m以上ある島の数が6852ということです。一番大きいのは佐渡島で、855平方キロあります。二番が奄美大島、三番が対馬島です。人口で一番多い島は、淡路島で14万7000人です。島の数が一番多いのが長崎県で、971の島があり、二番目が鹿児島の605、三番が北海道の508です。
日本の領海は広大で、領土と領海を合わせると、世界第六位の広さです。1982年の国連海洋法条約に基づいた領海、接続水域に関する法律により、12海里、約22kmの海域を定められ、日本の領海には、日本の主権が及びます。排他的経済水域は、同じく国連海洋法条約により定められ、陸地から200海里までの海のことです。200海里は、370kmです。この中の海を行き来するのは公海と同様に自由ですが、魚や海底資源を取るには、その国の許可が必要になります。排他的経済水域とはそういう海のことです。領空とは、領土と領海の上空を指します。日本の領空には日本の主権が及びます。
















































ベトナムと

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by toukokira-kira | 2014-05-28 17:44 | Trackback | Comments(0)

ああ、資源エネルギー

地球上の人口は現在72億人で、2050年には、推計人口96億人です。地球の食料、資源エネルギーは30億人分しかないのに、100億人を越えるのはもう目前です。中国の人口が13億人、インドが12億人、ブラジルが2億人です。アジアやアフリカ、南アメリカの新興国の人口を合わせると、約47億人の恵まれない新興国の人々が、食料と、資源エネルギーを手に入れたいと思っている人々です。地球上で恵まれた豊かな国々の人々は9億人で、餓死に瀕している国の人々は16億人です。餓死して死んでいる人の数は、年間1億人です。食料も、エネルギーも、30億人分が地球の適正規模ですが、まもなく人口は100億人に到達しようとしています。今世紀末には、エネルギー消費は現在の2倍になるということです。人口の増加とともに、新興国の約50億人の人々が豊かになりたいと、目覚め始めてきたからです。電気を手に入れたい、エネルギーを手に入れたいと思うようになってきたからです。第二次世界大戦以後、石油資源が開発され続け、天然ガスが掘削されてきました。石油はあと40年、天然ガスはあと60年で枯渇すると言われてきましたが、海底資源が発見されると、状況は変わりました。予想以上に埋蔵量があったのです。インドは、12億人の新興国ですが、殆どが貧しい人々です。でも、近年は、車3000台、携帯電話8億8000万台を保有するに至った大国です。インドでは電気代を払えないので、庶民の誰もが勝手に電線から電気を引いてきて使っています。電気のある生活が必要になっているのです。インドはカースト制度のある伝統的なヒンズー教の国家で、ラーマヤーナの世界の母国です。ラーマ王子と魔人とシーター姫の三つ巴の戦いの舞台がインドです。インドの庶民の家にはトイレというものがないのど、立ち小便が目立ちます。最近では、立ち小便を取り締まるために、小便をする人がいると、いきなり警官が放水して水を大量にかけられます。仏教国ではないこの国では、路傍で倒れている人がいてもそ知らぬふりです。道端でもがき苦しんでいる人がいても、死にそうになって苦しんでいる人がいても、誰も振り向かず、関心を示しません。見知らぬ個人のことには深入りしない習慣文化なのだそうです。仏教国の人間であれば、他人の苦境を見過ごしにすることはできないはずです。インドでは、個人のことには他人は一切関わらないのです。それが当たり前の国なのですから、不思議な感じがします。こういうインドですが、インドの12億人の人々が、電気や資源、食料を手に入れたいと思うようになってきています。中国もまた同様です。13億人の中国の人々のうち、豊かな生活文化を享受しているのは、都市部の僅かな人々です。残りの大多数の人々の食料、エネルギーを確保することは大変なことです。海底に石油資源があると判ると、そこを自分の領土だと主張して、主権を争います。南シナ海では、ベトナム、フィリピンと島の領有問題で争い、日本とは尖閣諸島で領土、領海を侵して侵入してきています。ベトナムでは暴動騒ぎとなり、中国人が犠牲となる事件に発展し、先日は、ベトナム漁船が中国漁船にぶつけられて沈没する事件が発生し、緊張が高まっています。根底にあるのは、エネルギー資源の争奪戦です。13億人を抱える中国にとっては、エネルギー資源の確保は、緊急の重要課題なのです。地球上では、これからますます、食料とエネルギー資源の奪い合いの競争、争い、紛争が激しく、絶え間なく続くものと思います。世界中での資源獲得競争が激化し、熾烈を極めているため、石油の埋蔵量も1,5倍に跳ね上がりました。新しい海底油田が次々と発見されるからです。技術が向上して海底の石油を採掘できるようになったからです。例えば、カナダでは5000mの深海から石油を採取しています。5000m掘削するのに2ケ月間かかるそうですが、あとは海上の船舶が石油生産基地となり、掘削から石油精製までを船上で行います。石油の油田は、5000mの深海の下にあります。深海の下にプレソルトという岩盤があり、大油田がそこにあります。日本の年間消費量の30年分の石油があるということです。コストも1バーレル当り50ドルと、十分です。これはカナダの原油埋蔵量の2倍に相当する発見です。また300メートル地下のオイルサンドには、莫大な石油資源が眠っており、莫大な開発コストのうえに事業化されました。20~30年は採取できる大油田であり、日本の年間消費量の100年分の埋蔵量だそうです。240兆円もの石油資源ですから、カナダを豊かにしてくれるものとして、期待されています。カナダは一躍、石油資源国になりました。1バーレル当り100ドルが石油の相場ですから、このオイルサンドの石油は、そのコストが1バーレル当り70ドルですから、十分にペイします。このように石油資源の開発競争は熾烈を極めています。世界中の国々がエネルギーを十分に手に入れたいと思っており、争奪戦は今後ますます激しくなります。将来、資源も食料もない日本はどうなるのでしょうか。軍隊を持たない平和ボケの日本が世界的な争奪競争、争いに勝てるのでしょうか。トルコは、人口7600万人の資源のない国です。人口は、この10年間で1000万人増加しています。資源がないので、石油、ガスの輸入が6兆円と、経済が大変です。水力発電所を新たに400ケ所増加させましたが、間に合いません。石炭も一生懸命に掘っていますが、この間の大規模な炭鉱爆発事故は、このような時代背景の中でおきました。この炭鉱事故を契機にして、国内情勢は一段と悪化しています。トルコにとって、エネルギー政策は、国家の最も重要な課題になっています。ロシアの原発に頼るしかなく、苦渋の決断をしました。2兆円の原発4基の建設と、管理運営はロシアが担うという条件のものでした。建設費はロシアが負担し、その代わりに、電気量の徴収や原発の管理運営はロシアが行うという変則的な内容でした。電気料金はロシアがトルコ住民から取るという形態です。新興国にとって、原発は何ら問題ではありません。原発を建設する資金こそが最大の問題なのです。福島原発事故があっても、新興国にとっては、原発は問題ではありません。資金が最大の問題なのです。ですから、トルコのような方式が生まれてきたのです。新興国にとっては、いかにしてエネルギー資源を手に入れるかが、最大の関心事であり、原発それ自体は問題ではありません。みんな電気を手に入れたいのです。ロシアと対立しているウクライナは、天然ガス供給をストップされ、困惑状態です。リトアニアもロシアの天然ガスに頼りきっているため、このウクライナの状態を看過できなくなりました。新たなエネルギー資源の模索が必要になってきています。中国と島の領有権を争っているベトナムでは、農村にも電気を使う生活文化が浸透しつつあります。村人たちが50kmも離れた電気店まで歩いて、電化製品を買う光景が目に付くようになりました。リヤカーを引いて、洗濯機や冷蔵庫などを買うのです。電気が部落にまで引かれるようになり、電気のある生活を失いたくないのです。電気を使った生活がしたいと思っているのです。世界中の新興国の誰もが電気を使いたいと思っているのです。地球上の100億人が豊かな生活を目指していますが、資源エネルギーは尽きる日がやがて来ます。子や孫が使えない時代がやってきます。無尽蔵ではありません。




















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by toukokira-kira | 2014-05-27 20:45 | Trackback | Comments(0)

高齢社会を生きるとは

NHKスペシャル老人漂流社会を見ましゃた。63歳の私にとって他人事ではない、老後の厳しい現実を見た思いでした。高齢者は3000万人を越え、増加し続けています。介護されない、管理されないように、しっかりと心身ともに健康に、経済的にも困ることなく過ごせる人もいますが、大半は、苦しい、厳しい現実となります。みんな若い時分から、真面目に働き、家族を養い育てて、立派に生きてきた人々なのですが、どういうわけか、誰もが最晩年の老後は苦しく、豊かなものではありません。老後の備えが十分ではなかったり、病気になったり、認知症になったり、動けなくなったりするのですが、一人ぼっちの身では、命にかかわっていても、助けてとは誰にも言えません。映像からは、高齢者の孤独な苦しみ、誰にも理解してもらえないような悲痛な心の叫びが伝わってきます。日本社会では、年を取ることが罪なように思えてきます。元気で若い時はよいのですが、高齢になり、家族もいなくて、一人暮らしで、貧困で、しかも病気や認知症で動けない老人の運命は、悲しいばかりです。高齢者の41%が100万円以下の貧困世帯であり、65歳以上の高齢者の40%が一人暮らしであり、25%が貧困者です。一人暮らしの貧しい老人世帯が浮かび上がってきますが、そうした老人の4人に一人は認知症患者です。認知症は70歳代から増加し、80歳代では、全体の40%にも及び、90歳代では100%近くの確率で発生します。現在でも、国の推計では、軽度の認知症を含めて800万人と推定されています。医療、介護が必要な人の人数ですから、すごい数です。特別養護老人ホームは、42万人待機の3年待ちの状況で、絶対的に不足している状況にありますから、病院とショートステイ施設のたらいまわしとなります。高齢になって家族の支えのない人は、ケアーをお金で買うしかない社会です。お金のない、病気の孤独な老人は、どうしたらよいのでしょうか。その運命は苦しく、悲惨です。年を取ることが罪なのでしょうか、と問いたくなるような現状です。どんなに清く立派な人格の老人でも、お金のない病気で孤独な人は、悲しいほどに苦しい人生の晩年を迎えます。病院と施設をたらい回しにされ、行き場を失います。ちゃんとした人生を歩んできたにもかかわらず、なぜこうなるのでしょうか。ここが今日のテーマです。安心して老後を過ごせる人は、安心して死んでいける人ですが、そう多くはありません。美しく豊かな老後を実現させるためには、経済的に豊かでなくてはなりません。それが現実です。高齢者の最大の問題は、健康とともに貧困なのです。有料老人ホームなどを終の棲家とできるのは、一握りの高齢者です。老後の優雅な日々を楽しむ人は、裕福なお金持ちの高齢者です。お金のない高齢者は、ホームレスになる人や、無料宿泊所に入る人など、厳しい現実が待ち受けています。成年後見人という制度があり、今、クローズアップされていますが、助けて、と誰にもいえない高齢者の厳しい現実を表しています。認知症で、病気で、家族もいない。一人ぼっちで誰もいない。そういう高齢者の生活保護や介護の申請手続き、財産の管理を本人に代わって行ってくれる人が成年後見人です。お金のない高齢者は、立派な人でも尊敬されない傾向にあります。お金持ちの高齢者は、多少わがままでも、チヤホヤされます。お金のあるうちは、大事にしてくれます。すべての価値基準の優先順位の第一位がお金です。お金が正義です。お金のある人は立派な人で、お金のない人は立派な人ではありません。それが現実かも知れません。拝金主義、金万能主義、お金至上主義の世の中です。ケアーもサービスも、すべてはお金で買う時代です。お金のない人は、ケアーもサービスも受けられません。高齢者夫婦世帯で夫の食事を介護の人に作ってもらいましたが、妻の分は作ってくれないのです。妻は食べないで見ているだけです。悲しくなりますね。介護の人に洗濯を頼んでも、一定の時間が来ると、洗うだけ洗って、濡れているのに、干さないで、そのももにして帰るのです。時間がくると、途中で作業を中止して帰ってしまうというのです。心ない対応ですが、現実だそうです。サービスはきっかりお金で動いているのです。老後の人生を考えるなら、まず、経済設計です。最低限、生きていくだけの蓄えと準備が絶対的に必要です。精神論はその後のことです。老後の晩年ですから、心の貯蓄、健康の貯蓄も大切でありますが、まずは、生活設計です。経済的な貯蓄が大切です。ローマは一日にして成らず。あのバチカンの神殿だって建設に120年の膨大な歳月を要しています。高齢者の生活設計の問題は、40歳代、50歳代から取り組む問題です。そうして準備してきた人たちが、ようやく美しい心豊かな老後を迎えることになるのです。何も考えずに、準備もしないで、老後を迎える人たちの命運は、明るいものではありません。その差が命運を分けることになるのです。子供たちを懸命に育て上げ、一生懸命働きながらも、生活するので精一杯だった誠実で誠のある人たちが、そのままやむなく、準備不足で老後を迎えると、どうなるのでしょうか。元気で若い時分は、何の問題もなかったのですが、やはり、厳しい現実が待っています。65歳以上の4割、半分近くが一人暮らしを余儀なくされ、年収100万円以下の貧困層です。70歳を越えると、病気や認知症で動けない高齢者が相当多くなります。80歳を越えると、40%が認知症を発症します。人生90年時代の到来と言われていますが、生きるにはあまりにも辛く、苦しい、長い余生です。若いうちから、晩年を見据えて、人生いかに生きるべきかを考えるべきかも知れません。今がよければいい、では、晩年を見事に生き抜くことはできません。強くそう思うこの頃です。老後を過ごすことのできる少しばかりのお金があって、正しく、楽しく、仲良く暮らすことができれば、最高なのです。生老病死の四苦が人生の大きな苦しみですが、確かにそう思います。生きるということは素晴らしいことなのですが、心身が自分の思うようにいかなくなると、辛く苦しくなります。肉体をもっているがゆえの苦しみです。苦のもとである肉体を脱ぎ捨てたくも、命あるかぎりは、そうもいきません。愛する者との別れや、憎しみ合う者との出会いや、求めても求め得ない苦しみなど、生きるということは苦の連続です。そして「老」です。誰にでも老いがやってきます。子供のいない夫婦では、妻に先だたられると、一人ぼっちの老人となります。貧困で認知症なら、どうなるのでしょうか。「老」と「病」はたいていセットでやってきます。安心して老後を過ごすことのできない人たちには、安心して死んでゆくことさえもできません。老後に対する事の捉え方、すなわち各人の性格が人生を左右しているということです。太く短くという人生を選択してきたのも性格です。細く長くという人生の選択も性格しだいです。事の捉え方、物事に対する考え方は、性格に基づくものであり、これが人生を左右するのです。太く短くという生き方は、今さえ良ければよいという、刹那的な生き方ですが、やはり、細く、長くという、計画的な生き方のほうが、人生にとってはプラスであろうと思います。こうした生き方の違いは、性格に基づいて現れます。運命は性格が決めているのです。







立派な

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by toukokira-kira | 2014-05-26 16:12 | Trackback | Comments(0)

死中活あり2

死中活あり、とは、己を捨てたところに、活きる道、活かす道があるという意味である。小我を捨てて、大我に生きるということである。自分というものを忘却して、完全に忘れ去ったところに、真我の発揮がある。保身と利己的な心で物事に対処しても、人は動かないのです。小我では、人を動かす力が働かないのです。人を動かせられないということは、何事も上手くいかない、成就しないということです。人間は、誰でも、程度の差はあれ、自分本位で、自己中心的で、身勝手な生き物です。自分が可愛いのです。その可愛い自分を護ろうとして、保身の術が花開きます。保身の心の究極は、人を不幸に貶める心です。自分を護るために、他者を貶め、他者の不幸を喜ぶようにさえなります。自分が可愛いから、他者に怒るのです。自分が可愛いから、他者を批判し、非難するのです。自分がこの世界の中心だと思っているから、恵まれた他者を妬み、羨み、憎むのです。自分さえよければ良いと思うから、利欲に突き動かされ、道を誤るのです。自分だけの狭い心の世界にいるから、自分というものに執着し、囚われるのです。小さな世界で囚われるから、自分が可愛くて、苦しみや悲しみから逃れようとしてもがくのです。小我に生きると、困難、試練から逃がれようとするばかりで、立ち向かう勇気が削がれていきます。一端、己を捨てたところから始めると、、己を活かす道、生きる道が生まれます。まさに死中活ありです。困難、試練に立ち向かい、乗り越えてゆく者のその先には、光に輝いた道が現れてきます。菩薩道とは、まさに、他者の命を救うために、己の命を捨てる覚悟で、事に望むことをいいます。仏教では大慈大悲の心とも言います。古流神道では、不動心と呼びます。不動心や大慈大悲の心で事をなすと、神仏の招来ありと言われ、見えない神の手が背中を押してくれます。絶体絶命の中で、危機を乗り越えて、物事が成就します。合掌
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by toukokira-kira | 2014-05-24 10:24 | Trackback | Comments(0)

・三日坊主の理由

人間は、何でも頭では判っていても、実行できない生き物なのである。綿密に計画を立てて実行に移すのだが、三日と続かない。だんだんにモチベーションが下がってきて、ついにはサボってしまうのです。それではいけない、ということでまた計画を緻密に練り上げて、大胆に実行に移すのですが、これまた続かないのです。やり方が悪いのかと思って、また一から考えて、計画を立てて、実行に移すのですが、またどうしても頓挫します。計画を立てることよりも、実行することが大事なことと思いつつも、どうしても中途半端で辞めてしまう。何でも中途挫折に終わってしまうのです。あなたは、とほほほ・・・と嘆いていませんか。これが多くの人の人生です。珍しいことではないのです。これだけ判っていても、どうすることもできないのです。だから人生は難しいのです。当たり前のことを、当たり前に、毎日コツコツとできることすら大変難しいことです。それができるのは、千里の道のりを完走できる能力のある人です。特別な人です。特別でない人が、当たり前でない特別なことを計画しても、毎日続けることは至難の業となります。一言で言うと、そういう性格をもって生まれてきていないということです。仕方ないのですよ。思考習性、行動習性は、過去世からの魂の記憶に基づくものであり、現世での思考と行動に大きな影響を与えているからです。思考習性は、事の捉え方ともいい、物事の考え方、認識の仕方のことで、性格を形成するものです。性格は、生まれながらに決まっているもので、人生、運命に大きな影響を与えます。

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by toukokira-kira | 2014-05-22 11:26 | Trackback | Comments(0)

・靖国

天皇をして現人神と言ったのは、江戸時代の国文学者平田篤胤である。ペリー来航以来の国に殉じた戦没者を英霊と呼んだのも平田篤胤である。人間を神様として祭ることは、通常ではないことですが、国に殉じた者を英霊と位置づけ、英霊は特別な存在となり、神様となった。1869年、明治2年に明治天皇の命により、東京招魂社が設立され、10年後の1879年、明治12年に靖国神社として改組され、今日に至ります。靖国神社は、国に殉じた英霊を祀る特別な神社です。当初は、戊辰戦争の戦没者を合祀することから始まり、明治維新の志士をはじめ、1853年のペリー来航以降の国内戦乱に殉じた人たちを祀った。日清、日露戦争や、第一次、第二次世界大戦などの英霊246万6000余柱が合祀されています。戦後も、今日まで国の為に殉じた公務員は英霊となり、合祀されています。1848年には、東京裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7名が処刑されたが、19781978年に年に合祀されている。この時点では中国は何も言っていない。第二次世界大戦では、アジアの人々が2000万人戦死し、日本人も300万人が戦死しています。東京裁判では、平和に対する罪で、元首相の東条英機や、陸軍大将、陸軍中将など25名がA級戦犯として有罪判決を受け、そのうち7名が死刑となりました。こうした明治時代からの歴史と、国に殉じた人々246万余柱が合祀され、神として、英霊として祀られているのが靖国神社です。この靖国神社の首相や閣僚の参拝を巡って、国際的な問題に発展しつつあります。昨年の12月26日、安倍首相が突然に靖国神社を参拝しました。現職総理としては、2006年の小泉首相以来7年ぶりの参拝でした。この行動に対して、中国、韓国が激しい懸念を表明し、同盟国の米国も失望の意を表明するなど、政治、外交問題の大きな火種に発展しています。2001年~2006年までの間に、小泉首相は、首相として6度も参拝していましたが、米国は沈黙を守っていました。その米国までもが、今回、安倍首相の靖国参拝に対して、失望の意を表明し、待ったをかけたのです。なぜ、日本の一神社をめぐり、諸外国を巻き込んで、これほどの騒動になるのでしょうか。安倍首相には、もう、靖国神社を参拝しないで欲しい。これは米国政府の本音である。米国政府が日本政府に、こうした確約を求めていたことが、米紙によって報じられ、明らかとなった。靖国神社は日本の神社である。日本人の精神世界を現すところです。日本人の安倍首相に対して、お参りしないで欲しいと、同盟国の米国の政府が要請するという摩訶不思議な構図です。事情を知らない人が聞けば内政干渉にもほどがあると思うかもしれません。台頭して力をつけ、影響力を強めている中国への配慮ということが誰の目にも判ります。東アジアの安定を求める米国には、靖国は日中韓の火種になる懸念以外のなにものでもありません。中国と韓国は、歴史認識問題として、閣僚の公式参拝には絶対反対なのです。靖国神社とは、国に殉じた英霊を祀る神社であり、日本独自のものです。神社は、日本人の精神世界のバックボーンとなる大切なところです。首相が参拝していけない所ではありません。諸外国からとやかく言われる筋合いのものではありません。しかし、なぜ、首相が参拝すると問題になるのか。信教の自由の保障と、政教分離の原則が一つの問題である、憲法第20条で、掲げられている。もう一つは、歴史認識問題と、A級戦犯合祀の問題である。信教の自由は次のとおりである。憲法20条では、信教の自由は何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。とある。公職者の参拝は憲法違反となるが、私人は、この憲法条文により、信教の自由があり、参拝できる。政教分離の原則については、憲法20条で次のように規定されています。国及び機関は、宗教教育、その他いかなる宗教的活動をしてはならない、とあります。つまり、首相や閣僚、知事などの公職にある人が公的に靖国神社に参拝し、公的な支出によって玉串料や寄付を行うことは憲法20条に違反するとして、問題視されています。結論から言うと、公的参拝は駄目だが、公的な立場を離れた私人としての参拝は、問題ないのです。信教の自由という憲法で保証された権利だからです。公人か私人かが焦点です。あとは、政治外交上の問題です。中国の言い分は、独善的です。靖国神社は戦死者を英霊として祭り、戦争自体を肯定的に美化して捉えている、けしからん、というものです。そうした神社に公的な立場の人が公式に参拝するのは、問題がある。過去の侵略への反省がない、となるのです。内政干渉以外のなにものでもありません。この中韓の考え方に、組して米国が失望の意を示したことは、世界正義の観点からは残念なことです。靖国神社は、中国の言うように、戦争自体を肯定的に捉えたという公式見解は一度も発したことはありません。靖国の問題をややこしくしているのは、A級戦犯の合祀問題です。1978年に、東京裁判で平和に対する罪に問われたA級戦犯14名が国家の犠牲者として靖国神社に合祀されたのです。多くの兵隊、軍人を牛馬のごとくに使い、平然と見殺しにしてきた悪い奴も相当いましたが、この者たちがただちに悪いわけではありません。勝った者が、負けたものを裁く裁判で、責任を取ったということです。国と国のけじめということです。神社での参拝は、人としての心の問題、精神世界の問題です。別次元の問題です。戦争犯罪人を神として祭るのはけしからん、戦争犯罪人に頭を下げて、参拝するのは問題がある、という反発が中韓です。日本神道を理解しない中での誹謗中傷です。合祀の問題は、靖国神社自身がどうするか主体的に考える問題であり、外野がとやかく言うべき問題ではありません。政府が分祀を働きかけると、憲法違反になります。神道の考えでは、神は一つになっており、選別して取り上げることはできない、分祀して神を分離することはできない、というのが基本的な考えです。またA級戦犯ゆかりの寺社は、靖国神社だけではありません。1948年に処刑されたA級戦犯は7名です。東条英機元首相、広田弘毅陸軍大将、松井石根、板垣征四郎、木村平太郎、土肥原賢二、武藤章の陸軍中将など7名です。彼らの位牌はひそかに関係者の手によって持ち出され、静岡県熱海市の興亜観音に埋葬され、1960年代には、その一部が、愛知県西尾市の殉国七士廟にも分骨されています。この二つは小さな靖国神社と呼ばれることもあります。戦争責任を一身に背負って、罪を被って殉国の士として処刑された彼らこそ、靖国神社の英霊となるべき人々です。天皇の名代として裁かれた英霊なのです。決して戦争を肯定し、美化するというものではありません。遺族の無念はいかばかりか、と思うのです。中国と無用の緊張を高めないでくれ、歴史問題を蒸し返さないでくれ、日本は米国のことを思って対処してくれ、というのが米国のスタンスです。それを破って参拝したから絶望となったのです。あれほど言っていたのに、忠告を聞き入れなかったことに対する絶望でした。安倍首相は、国のために闘った方々に祈りを捧げ、感謝の思いを捧げるのは世界のリーダーに共通する姿勢である、として、意に介さない。それでよいのだと思います。















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by toukokira-kira | 2014-05-21 22:37 | Trackback | Comments(0)