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2019年 06月 07日 ( 2 )

仇討ちの文化

日本独自のものに仇討ちというものがあります。
刑事裁判所がない古い時代には、殺人は罪ではありませんでした。
被害者の身内から付け狙われて、復讐されることだけが、殺人を食い止め、社会秩序を維持する手段でした。
昔の前時代には、仇討ちは、社会秩序を守るための正義の行いでした。
裁く法はなくとも、世間が許さないということです。
社会の正義を守るためのものが仇討ちでした。
復讐には違いないのですが、そこには正義の理念が与えられています。
復讐に正義感が与えられると、もう復讐ではないのです。
切腹も、仇討ちも凄惨極まりないものですが、そこに正義という道徳が付与されると、尊敬を集める崇高なものに変わります。
これが世の中を動かす原理です。
昔、この世で一番美しいものは何かと、エジプトの神話に出てくるオシリス神は、ホルス神にお尋ねになりましたが、その答えは、「親の敵を討つ」ことが、一番美しいことだというものでした。
同様に日本人も、主君や親、恩人の敵を討つことが最上の美徳、忠義の士でした。ですから仇討ちは、正義感に訴え、皆を納得させる力があります。
正義の復讐が仇討ちであり、正義感に裏づけされていないものは、復讐です。
正義感のない復讐は、単なる復讐で、誰からも評価されません。
怨恨は、仇討ちではありません。
老子は、恨みには徳で応えなさい、と云いました。
孔子は、傷つけられたら、正義の仕返しをしなさいと言っています。
どちらが正しいかは自明の理です。
アラブには復讐法というものがあります。
目には目、歯には歯です。
やられた分だけ、やり返すことが法律で許されました。
正義の復讐は、復讐にあらず、という風潮です。
日本の仇討ちのルールは厳しいもので、主君、目上の者、恩人の仇に報いるときだけ仇討ちが認められ、自分や妻子が被害にあっても、決して認められませんでした。
認められるための道徳的正義がルールとして存在したのです。
やったら、やり返される、というのは、現代の刑法にあい通じるものです。
人を殺したら、死刑という刑罰が待っています。
自分がやるか、国家がやるかの違いです。
古流神道では、復讐はどんな正義感があろうとも、許されるものではありません。仕返しの心は、神の意志に反するものです。
辛く苦しくとも、人間である以上、愛と、許し、寛容の精神が求められます。
今の世、世界を見渡してみると、聖戦と称して、正義であれば何をしてもよいという風潮があります。
正義を実現するための戦いと称して、対立する人々の命を平気で奪っています。
聖なる戦いで死んだ者は、アラーの側近くの天国にいけると宣伝し、煽っています。
正義というものを間違うと大変なことになるということです。
その意味で何がよくて、何が悪いかという「是非の心」の修養は、とても大切です。









by toukokira-kira | 2019-06-07 22:37 | Trackback | Comments(0)

永遠不滅の精神

これまでに幾度も繰り返して、日本の心、武士道の精神について綴ってきました。
武士道の正義感、道徳観は、世界中のどんな宗教も及ばないような気高さと崇高さをもっているからです。
江戸時代の国学者、本居宣長は、武士道の心についてこう歌っています。
「敷島の大和心を人問わば 朝日ににおう 山桜花」
もし私が日本人の心とはどんなものかと人に聞かれたならば、それは朝日に照らされて、色美しく映える山桜のはなのようなものだ、と答えよう。という意味です。
桜は梅とともに昔から日本人最愛の花です。
いわば国民性を象徴する花です。
桜の花は洗練されて優美です。
その香りはひかえめで,飽きがきません。
山桜の花は、無常の風が吹けば、いつでもその命をいさぎよく散らします。
このように命の短い、はかない花が大和魂なのだろうか。
しかし、武士道は、今も、未来も、日本人の心として永遠に生きつづけ、輝き続けていくものだと思います。
武士道は、すべての日本人の心の中に、無意識の世界、暗黙の世界として刻印されているのです。
魂の記憶として受け継がれていくのです。
武士道の精神は、魂の法則であり、未来永劫消滅することはなく、永遠に不滅です。
by toukokira-kira | 2019-06-07 22:21 | Trackback | Comments(0)