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2017年 07月 12日 ( 4 )

聖なる伝授

我が流儀は、師を通して弟子に伝授、ディクシャする秘奥義の教えです。
誰にでも伝授し、教えを導くわけではありません。
我が流儀の専修の業による術法、秘奥義は、今なお秘密で公開していません。
ソフトである心の教えは随時このブログで公開していますが、ハード面に当たる陰陽師の術法は未公開ということです。
心の教えである教義については、4000編をこえるこのブログ記事の中に縦横無尽に書き綴っています。
またエネルギーを伝授するサマディへの道もごく少数です。
ディクシャを通じて伝えるのは、一握りの者です。
清貧の心をもった者でないと、伝授は行っておりません。
清貧の心とは、四端の心の実践者であり、自利利他の心、大我の心を持ちえてる人ということです。
清貧という言葉が死語になっている今日、なかなかそういう人にめぐり合うことはありません。

by toukokira-kira | 2017-07-12 18:27 | Trackback | Comments(0)

伝授とは

仏教もキリスト教も、神仏を信じるということで宗教が成り立ち、神仏という存在とつながっています。
そして神仏は心や魂と同様に目には見えない存在なので、仏陀やキリストを神として神格化、シンボル化し、信じる人たちが迷わないように、わかりやすくしています。
仏陀もキリストも人間であり、人々と神とをつなぐ役目の聖者なのですが、いつのまにか仏陀もキリストも神仏そのものになり、人々から崇められています。
仏陀もキリストもエネルギをもった特別な人間であり、そのエネルギーによって無限の働きを示しました。
エネルギーをもった人間は、この世界に少なからず存在しています。
しかし、無限の力をもった宇宙エネルギーを自在に使いこなす聖者はほんの一握りです。
いつでも出会えるようで、なかなか出会えないのがエネルギーの世界です。
エネルギーをもった人間に縁があって出会える人というのはそう多くはありません。
エネルギーをもった人からエネルギを受けることを伝授といいます。
伝授のことをディクシャとも言います。
理屈ではなく、エネルギー伝授を受けると、一瞬で真理に近づきます。
例えば、仏陀やキリストのような高次のエネルギーを受けることによって、魂が四魂が、直霊が一瞬で変容するからです。
ですから聖者が行うエネルギーの伝授は聖なる儀式の一つで尊いものです。
by toukokira-kira | 2017-07-12 17:45 | Trackback | Comments(0)

清貧の心こそ

本物の聖者は、欲望や執着とも縁がないので、富や財産、権力や地位、名誉、名声とは無縁の存在です。
そして、執着がないので、怒りも、憎しみも、妬みも生まれません。
そういう浮世の欲望や名声には全く関心がありません。
欲得で感情に突き動かされることがないので、いつも穏やかで静かです。
ニコニコと笑顔満面で、親切で温かい人物です。
生活はいたって質素であり、いわゆる清貧に生きています。
清貧の心とは、現状に大満足する心であり、分け与える心、人の苦境を見過ごしにできない心が含まれています。
お金持ちでも、清貧の心の人がいます。
恵まれない人々に寄付をし、分け与え、人を救い、助けている人は、まさに清貧の心をもった人です。
人間探求精神を磨きながら、人間が人間である所以や、人間の真の有り様を学ぶことが大切と思うこの頃です。
我が流儀の「笑顔、ニコニコ、ありがとう!」の精神というのは、例えるならばまさに清貧の心なのです。
日本の武士道でも、西洋の騎士道でも、その精神的根幹をなすのはこの「清貧の心」であるということをお忘れなく。
清貧の心なくして、悟りなしということです。
それぐらい清貧とは大切な心です。

by toukokira-kira | 2017-07-12 11:59 | Trackback | Comments(0)

真の瞑想とは

我が流儀五心朝天法は、瞑想呼吸法を大事にしています。
瞑想というと、座禅を組む修行僧をイメージするのではありませんか。
一般の人々にも馴染みのある言葉ですが、瞑想はもともと古流神道によって発見された修行法の一つです。
仏教伝来よりもはるか数百年以前のことです。
古流神道では、古くから、神に出会い、真理を悟っていくための瞑想が行われてきました。
インドでは瞑想のことをディヤーナといい、仏陀の仏教に瞑想が伝えられたようです。それが中国にわたり禅那とよばれ、日本の仏教に禅として伝わっていますが、こうした流れのものとは、本質的に異なるものが古流神道の瞑想です。
禅宗の瞑想は、座禅とよばれるように、じっと座って雑念を取り除き、心を空っぽにしていこうとするものです。
そこには神への橋渡し役がいないので、何十年も座り続けていても、一つの悟りも、進歩も、前進もありません。
高次元のエネルギーの伝授、コンタクトがないので、むなしい自己満足だけの修行となります。
ただ座るという修行であり、何の心の変容も生じない修行です。
瞑想によって、心の汚れや曇りが祓われ,溶かされていくというものではありません。
意識が進化し、カルマが消滅するというような瞑想ではありません。
エネルギーの伝授、ディクシャのない瞑想は、単なる妄想と何ら変ることなく、意味がありません。
大自然のひびき、バイブレーションを感じながら、唯一絶対の宇宙神とつながっていく瞑想が真実の瞑想です。

by toukokira-kira | 2017-07-12 10:22 | Trackback | Comments(0)