★★★人間というもの

自分が何かを決めるとき、ああしよう、こうしようと決めるときには、意思力が働いています。
そのときの心のあり方が問題となり、カルマとなります。
公平、公正な思考が重要で、それを欠いた意思決定は、自分の内外に不調和を生み出します。
外には争い、摩擦、批判の種となります。
内には、無気力、無関心、怠惰、脱力となって現れます。
どんなことが起きているのかと言うと、全身の細胞が不活性となり、神経系、心臓、代謝など各器官の働きが低下します。
皮膚の乾燥、発汗減少、便秘などさまざまな症状が起きてきます。
喉の不調は、否定的な言葉、悪い言葉、好ましくない言葉の使い過ぎです。
笑い声も足りません。
人を責める気持ちがセキとなり、深い悲しみの心が喘息となります。
心からの反省と笑顔が何よりの調和をもたらします。
公平さを欠い行動は、自他に大きな影響を与えます。
人間の身体は、不平等ということに、無条件に反応します。
人間の怒りの根源は不平等であることであり、恐怖の根源は孤立することです。
ネアンデルタール人やクロマニヨン人の太古の昔から、人間は「孤独」と「不平等」は死活問題でしたので敏感でした。
猛獣がウヨウヨと徘徊する草原で狩をして生活するのですが、仲間はずれになって一人ぼっちになると、命を脅かす恐怖と不安で生きてはいられないのです。
狩猟した獲物もみんな平等に分配していましたから、争いもなく、ストレスもなかったのです。
しかし、獲物の分配に少しでも不平等があると、集落に血の雨が降りました。
そんなわけで、孤独の恐怖と、不平等への怒りというのは、人間の本能に深く刻み込まれた根源的な感情なのです。
ですから、孤独や不平等ということに対しては、人間は無意識に反応します。
負の反応です。ストレス反応といってもよいです。
ストレスホルモンが分泌され、身体の調和が失われるのです。
ですから不平等があるといけません。
公平、公正な行動がとれるように、自分自身をコントロールする意志力必要です。自己コントロールできなければ、カルマを重ねるばかりです。
とんでもない意思決定の連続では、カルマの解消どころか、カルマが大きくなるばかりです。
自己コントロールする意志力がなければ、感情や欲に呑み込まれて、欲望やエゴの言いなりになる危険があります。
大事なことは、公正公平な心と克己心をもつことです。
人間世界は、不平等がすべての争いの種なのです。
不平等な行為こそが、不平不満、怒りの根源なのです。
ですからストレスの大本は、不平等と孤独ということです。
公平、公正な意志力が求められるのです。
意志力で一番大事なことは、言葉の使い方です。
声に出して言葉を語るとき、この3次元世界に言霊の波動エネルギーが解き放たれ、一つの意思決定がなされてしまうからです。
自分の語る言葉が、のちにどのような形で自分に還ってくるか、戻ってくるか、考えてみてください。
吟味した良い言葉や笑い声を外に響かせましょう。
言葉には神が宿っていますから、よくも悪くも実現する力、作用する力をもっています。ですから十分な注意が必要です。
私たちの世界は三次元世界ですが、神が憩う世界は高次元の光の世界です。
魂の高いレベルでは、神の光の世界と一体になった高次の世界です。
魂はみな修行して、魂を磨いて、カルマを清算して、完全形の魂を目指して次元上昇しようと努力しています。
どこに向って努力しているのかというと、神の光に向って努力しているのです。
三次元の人間は、神への帰趨本能をもっているのです。
人間の魂は、神への光に少しでも近づいていけるように努力しているのです。
もともと、人間は、神の光から枝分かれして生まれ出た存在だからです。
キリスト教では、土に息を吹き掛けて神が人間を創りましたが、神道では、神の光から人間が生まれたとされています。
ですから、人間の心の奥底には内なる神が存在するのです。
人間は愛という、神と同じ性質が大本にあることがそれを証明しています。
人は、こうした神の性質をもった愛と、カルマという負の負債の両方をもった存在です。
もちろんカルマには悪いものばかりではなく、良いカルマもあります。
良いカルマの積み重ねを徳といいます。
カルマの負債と、徳の積み重ね。
人はこの両方をもっており、良いカルマが悪いカルマを帳消しにしてくれるのです。
悪いだけの人間はいません。
徳を積み重ねて、因果律、命運を向上させることもできるのです。
徳を積みましょう。見返りを求めない善行を積みましょう。
人知れず行う陰徳を積みましょう。
陰徳というカルマが悪いカルマを消し去ってくれます。
陰徳で一番のものは「他者に親切にして、思いやりのある行為をする」ことです。

キリスト教の教えに基づく徳とは、愛、希望、信仰です。
愛を与え、希望を与え、ゆるぎない信仰をもつことがキリスト教の徳です。
そして、西洋の古典世界では、徳とは、正義、叡智、忍耐、清貧の4つです。
この4つの徳は、騎士道精神の真髄、根幹でもあります。
徳の定義を簡単に言うと、自分の喜びが、すべての人の喜びとなるような行為のことです。
自分の行為が他者の幸せに結びつく行為のことです。
自己中心的な、身勝手な行為とは一線を画すものです。
「徳」の延長線上には、神の光の世界があり、徳を積む道は、神の道につながる道です。
神に愛される人々は、純粋で愛に満ちた、心の清い人です。
小利口な野心的な人のことではありません。
「汚れた心の聖職者よりも、清い心の無心論者のほうが神に近い」という言葉があります。
「愛のない成功よりも、愛のある失敗のほうがはるかに価値がある」という格言もあるのです。
心に愛があれば、動機に愛があれば、何をしても、失敗しても、魂に傷はつかないのです。
魂の向上の妨げにはならないのです。
魂にとって、結果よりも、心のあり方、動機が大切なのです。
愛こそすべてを活かす命なのです。
さて、現代では貧苦は、四苦に続く5番目の苦になっていますが、清貧は人間の重要な徳目です。
西洋の騎士道も、日本の武士道も、この清貧であることを尊びました。
私欲を捨て、正しい行いのために、貧しく、生活が質素なことを清貧といいます。古来より、最高の徳目として尊ばれました。
成功して、沢山の富みを得ている人が、私欲を捨てて、正しい行いのために、貧しい人と分かち合い、自らも質素であるならば、それは清貧な人です。
どんな境遇にあっても、愛と分かち合う心があれば、清貧のために豊かさを否定する必要はありません。
この世界では、人は感情と欲に突き動かされて、よく道を誤ります。
わたし達を縛るものから自由になるためには、清貧が必要なのです。
心を失わずに、自由度を高めることが、本当の幸せを手に入れることになるのです。
権力、富、地位、名誉、名声といった物質的な欲望は、人の心を縛り、波乱万丈の人生へと誘うものです。
それゆえのに、生きるとは、迷い多き苦しみの人生となるのです。
清貧という言葉は、現代ではすでに死語に近いものとなりましたが、今こそ見つめ直さなければならない大切な言葉です。
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by toukokira-kira | 2018-11-14 17:34 | Trackback | Comments(0)