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渡辺華山の母

渡辺華山の母は、日本の賢母としてつとに有名です。
渡辺崋山は寛政5年(1793)9月16日、江戸麹町の田原藩(現在、愛知県渥美郡田原町)上屋敷に長子として生まれました。

父定通は家老とはいうものの、田原藩は一万二千石の小藩であり、しかも病身。
その上、七人の幼い弟と老祖母を抱え、母の手ひとつで貧窮極まる一家を支えていた。
崋山は母を助けながら、苦労して儒学、画、漢学などの勉学に励む。
11人の妹弟を食べさせるために、幼くして、崋山は商人の家に丁稚奉公に出ました。
10歳の崋山は武士の家老の子でしたが、一生懸命に丁稚奉公に励みました。
慣れぬ仕事ゆえ、いじめられて辛い苦しい毎日でした。
冬は、素手、素足で雑巾掛けをするので、アカギレになり、荷物を縛る縄目がアカギレの手指に食い込んで我慢ができませんでした。
アカギレの割れ目がパックリと裂けて痛むので、アカギレの割れ目に真っ赤に焼けた囲炉裏の火鉢を押し付けて、治そうとしました。
ジュジューと皮膚が焼け焦げる臭いがしたそうです。

辛い苦しい丁稚奉公は、過酷さ艱難辛苦を極め、ある日、崋山は堪えられなくなって、奉公先を逃げ出して、冬の雪道を、冬着も着ないで、素足の草履のまま、山を幾つも越えて、何日間も歩き続けて、やっとの思いで、夜道を母のいる実家に帰ってきました。空腹と寒さで凍え死ぬ一歩手前の状態で実家に辿り着いたということです。
「ああ、やっと着いた」「これで命が助かった」と華山は内心安堵しました。
ところがです、そう思って玄関先に入るなり、崋山の母は、鬼のような形相をして、玄関先で崋山をしかりつけ、「お前の帰ってくる家はない」「さあ、さっさと奉公先へ帰れ」と冷たく、追い払うのでした。
取りつく暇もありません。
「少し休めとも言わず、これを食べろとも言わず」無情冷淡にそのまま追い払うのでした。
崋山は、仕方なく、冬の寒空の中、夜道を引き返していきました。
引き返す道は、空腹と寒さで身体は震え、まさに生き地獄でした。
顔は涙で凍りつきましたが、この経験は華山を大きく変える契機となりました。

華山の母はというと、「崋山や、堪忍しておくれ、お前のためなのだから」と目を真っ赤に腫らして、華山の身を案じながら泣き続けました。
「どうか無事に奉公先へ帰っておくれ!」と地蔵様にお祈りしながら、泣きつづけました。

この一件以来、崋山は、どんなに辛く苦しくても、弱音を吐くこともなく、辛抱、忍耐で乗り切りました。
辛抱に辛抱を重ね、忍耐に忍耐を重ね、ついには丁稚小僧から家老職にまで登りつめました。

そして後年、蛮社の獄の後、自刃するまでに、数多くの優れた画、漢詩、和歌、俳諧、書物を残しています。
 また崋山は、高野長英、小関三英、江川坦庵らの蘭学者と交流しつつ蘭学を学び、当時の日本人で最も外国の事情に明るい人物の一人になりました。
その外国についての多くの情報を背景に国際情勢を論じ、鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていると攘夷の非をとなえ、憂国を訴えた大人物でした。
そして、何よりも母が立派でした。
涙をこらえながら、可愛いわが子を谷底に突き落とし、辛抱と忍耐の大切さを教えました。
この母なくして、渡辺華山はありえなかったのであります。




by toukokira-kira | 2018-01-29 11:44