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正義の心とは

私達の子供時代は、正義の味方「月光仮面」と申しましたが、この正義とは一体何でしょうか。
判るようで判らないのが「正義」という言葉です。
さて、人間には、正義心と使命観があって人間でいられるのですが、この正義心と使命観が自我意識と結びつくと、あまりよいものではなくなります。

自分は間違っていない、相手が間違っている、自分こそは正義である、と思ってしまうと、人は威張ったり、怒鳴ったり,怒ったりします。
中途半端な正義心や使命観を持つと、争いや対立のもととなります。
これを仏教では「我見」といいます。
人が「こうあるべきだ」とか、「こうあらねばならない」と固定的に考えると、そこから外れた人は、みな悪ということになります。
偏狭な正義心があると、争い事が絶えません。
この世のすべての人が、自分こそは正しいと思ったら、争うと衝突、対立と抗争ばかりになります。
我欲、我執とともに、この我見というのは実にやっかいなものです。
互いが、互いの価値観に基づき、自分こそ正義だと思うと、争いが起こるのです。世の中のすべての人が、自分は間違っていると思えば、争いも戦争も起きません。自分は正しいと思うから、そこに怒りや憎しみが生まれ、攻撃の心が湧き上がってくるのです。
ですから、人間は、つねに、自分は間違っているかも知れないと思っていれば、そういう攻撃的な心は湧いてこないのです。
正義心や使命観は、人間が生きていくためには、なくてはならないものですが、使い方を間違うと、争いのもとになるということです。

自分を律するための正義心、使命観なのであって、それを他者に投影したり、求めたり、強要したりすると、争いが絶えなくなるのです。
自分の信じる正義心や使命観がどんなに立派なものであっても、それを他人に押し付けてはならないということです。
こうしろ、ああしろと勝手気ままに命令ばかりしていると、人間関係が破綻していきます。

本物の正義心と使命観というものは、神の領域にあるものです。
普通の人々の正義心や使命観は、自分とは違う考え方の相手を憎しみ、恨み、怒り、軽蔑、差別するような心の動き、感情の誘発につながっていきますから、ご用心ということです。

偏屈な正義心を振りかざすと、必ず争いが起きるということです。万人がよしとする生き方が真の正義心であり、万人に喜ばれる心なのです。正義心とは、神の領域の心であり、謙虚さがないと、大変なことになります。

もしかしたら、私が間違っているのではないだろうかと、つねづね考えることが、謙虚さということです。そういう謙虚さがあれば、正義心を持っていても、相手を憎まず,怒ることもないのです。誠実さとともに、謙虚さは、人間が人間たるための大切な美徳の一つです。
by toukokira-kira | 2017-07-23 17:55