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★★清貧とは、不平等とは

自分が何かを決めるとき、ああしよう、こうしようと決めるときには、意思力が働いています。
そのときの心のあり方が問題となり、カルマとなります。
人間にとっては、公平、公正な思考が重要で、それを欠いた意思決定は、自分の内外に不調和を生み出します。
不公平、平等でないということは、ストレスとなって自分を苦しめます。
外には争い、摩擦、批判の種となります。
内には、無気力、無関心、怠惰、脱力となって現れます。
どんなことが起きているのかと言うと、全身の細胞が不活性となり、自律神経系、免疫系、内分泌系、心臓、細胞代謝など各器官の働きが低下します。
身体的には、血流障害、血圧異常、皮膚の乾燥、発汗減少、便秘などさまざまな症状が起きてきます。
喉の不調は、否定的な言葉の使い過ぎです。笑い声も足りません。
人を責める気持ちがセキとなり、喘息となります。
心からの反省と笑顔が何よりの調和をもたらします。
公平さを欠い行動は、自他に大きな影響を与えます。
人間の身体は、不平等ということに、無条件に反応します。
公平でないことには無意識に反応します。
負の反応です。ストレス反応といってもよいです。
副腎からストレスホルモンが分泌され、身体の調和が失われるのです。
脳が不調和となりますから、痛みや違和感が倍増して身体に表れます。
原因不明の腰痛、肩こりというのは、脳の不調和が原因です。
脳にストレスがかかると、痛みを和らげるホルモン物質の分泌が抑えられるので、痛みを感じやすくなります。少しの痛みでも耐えられない痛みと感じます。
こういう原因不明のストレスによる腰痛患者、肩こり痛の患者も相当多いのですよ。
元気健康のためには、公平、公正な行動がとれるように、自分自身をコントロールする意志力必要です。
自己コントロールできなければ、カルマを重ねるばかりです。
とんでもない意思決定の連続では、カルマの解消どころか、カルマが大きくなるばかりです。
自己コントロールする意志力がなければ、感情や欲に呑み込まれて、欲望やエゴの言いなりになる危険があります。
人間というのは、大きく分けて、好き嫌いで判断する人と、損得勘定で判断する人とに大別できます。
いずれにしても、人間は好き嫌いの感情と欲得、損得勘定で判断し、行動します。
とくに政治家や商人というのは、いつも、損得勘定で判断し、行動します。
ですから嫌いな人にでも、必要とあらば、平気で擦り寄っていって、仲良くできるのが政治家、商人です。

まあ、話しを元に戻しますが、大事なことは、公正公平な心をもつことです。
人間世界は、不公平、不平等がすべての争いの種なのです。
不平等な行為こそが、不平不満、怒りの根源なのです。
平等でないことは、人間にとって根源的なストレスとなります。
ネアンデルタール人は狩猟部族でしたが、獲物の肉は皆平等に、公平に分配されました。
何でも平等に分配したので、不平不満もなく、ストレスもありませんでした。
肉や獲物の分配が公平、平等でないと、ストレスが高じて争いとなりました。
今も、サバンナの狩猟少数民族は、獲物を平等に分けるルールがあるので、この少数民族にはストレスという概念がありません。
公平でないこと、平等に分配されないことが、人間の根源的なストレスとなります。
人類のDNAには、平等でないことに対するストレス反応が、原始本能として刻印されているのです。
その平等という原始本能があらゆる事象に反応し、ストレス反応となって、身体を苦しめるのです。
人間の心は、平等でないと感じると、妬み、羨み、憎み、怒るのです。
ストレスの原因になるということです。
不平等であるということが、人間のストレスの根源になるものです。
アフリカのサバンナの狩猟民族には、ストレスというものが存在しないことが、最近の医学研究で判りました。
脳内のストレスホルモンが一定値なのです。
原因は、獲物の肉でも、毛皮でも、何でも平等に分配しているからだ、ということが判りました。
平等な社会にはストレスは存在しないということです。
他と見比べたり、経済格差がとてつもなく大きい現代の世というのは、まさに不平等なストレス社会かも知れません。
弱肉強食の競争社会に身を置いていますので、相当なストレスが蔓延しているのに違いありません。

平等には、公平、公正な意志力が求められるのです。
意志力で一番大事なことは、言葉の使い方です。
声に出して言葉を語るとき、この3次元世界に言霊の波動エネルギーが解き放たれ、一つの意思決定がなされてしまうからです。
自分の語る言葉が、のちにどのような形で自分に還ってくるか、戻ってくるか、考えてみてください。
発した言葉や想いというのは、相手や宇宙を彷徨いながら、最期には必ず発した本人のもとへブーメランのように還ってきます。
怒りや憎しみの想いを発すると、やがてはそれが自分に還ってきて、自分を苦しめることになります。
吟味した良い言葉や笑い声を外に響かせましょう。
言葉には神が宿っていますから、よくも悪くも実現する力、作用する力をもっていますから、十分な注意が必要です。
私たちの世界は三次元世界ですが、神が憩う世界は高次元の光の世界です。
魂の高いレベルでは、神の光の世界と一体になった高次の世界です。
魂はみな修行して、魂を磨いて、カルマを清算して、完全形の魂を目指して上昇しようと努力しています。
どこに向って努力しているのかというと、神の光に向って努力しているのです。
三次元の人間は、神の光の世界への帰趨本能をもっているのです。
なぜならば、もともと人間は、神の光から生まれ出た存在だからです。
人間は愛という、神と同じ性質が大本にあるからです。
人は、こうした神の性質をもった愛と、カルマという負の負債の両方をもった存在です。
もちろんカルマには悪いものばかりではなく、良いカルマもあります。
良いカルマの積み重ねを徳といいます。
カルマの負債と、徳の積み重ね。人はこの両方をもっており、良いカルマが悪いカルマを帳消しにしてくれるのです。
悪いだけの人間はいません。徳を積み重ねて、因果律、命運を向上させることもできるのです。
徳を積みましょう。陰徳を積みましょう。
悪い因縁やカルマを打ち消して中和してくれるのが、善行、徳行だからです。
キリスト教の教えに基づく徳とは、愛、希望、信仰です。
西洋の古典世界では、徳とは、正義、叡智、忍耐、清貧の4つです。
徳の定義を簡単に言うと、自分の喜びが、すべての人の喜びとなるような行為のことです。
自分の行為が他者の幸せに結びつく行為のことです。
自己中心的な、身勝手な行為とは一線を画すものです。
「徳」の延長線上には、神の光の世界があり、徳を積む道は、神の道につながる道です。
神に愛される人々は、純粋で愛に満ちた、心の清い人です。
小利口な人のことではありません。
「汚れた心の聖職者よりも、清い心の無心論者のほうが神に近い」という言葉があります。
「愛のない成功よりも、愛のある失敗のほうがはるかに価値がある」という格言もあるのです。
心に愛があれば、動機に愛があれば、何をしても、失敗しても、魂に傷はつかないのです。
魂の向上の妨げにはならないのです。
魂にとって、結果よりも、心のあり方、動機が大切なのです。
愛こそがすべてを活かす命なのです。
さて、現代では貧苦は、四苦に続く5番目の苦になっていますが、清貧は人間の重要な徳目です。
私欲を捨て、正しい行いのために、貧しく、生活が質素なことを清貧といいます。古来より、最高の徳目として尊ばれました。
成功して、沢山の富みを得ている人が、私欲を捨てて、正しい行いのために、貧しい人と分かち合い、自らも質素であるならば、それは清貧な人です。
どんな境遇にあっても、愛と分かち合う心があれば、清貧のために豊かさを否定する必要はありません。
この世界では、人は感情と欲に突き動かされて、よく道を誤ります。
わたし達を縛るものから自由になるためには、清貧が必要なのです。
心を失わずに、自由度を高めることが、本当の幸せを手に入れることになるのです。
権力、富、地位、名誉、名声といった物質的な欲望は、人の心を縛り、波乱万丈の人生へと誘うものです。
それゆえのに、生きるとは、迷い多き苦しみの人生となるのです。
清貧という言葉は、現代ではすでに死語に近いものとなりましたが、見つめ直さなければならない大切な言葉です。


by toukokira-kira | 2017-01-11 16:44