区別という名の差別

平等の中に区別という差別が存在すると言ったのは、千年以上も前の先達、空海です。「イコール、バット、セパレート」即ち「平等だが別々」という概念は、現代の思想がつくりだしたものですが、1200年以上前の空海は、平等の中にある区別という差別用語をしっかりと理解して、捉えていたということです。
その叡眼に感服です。
米国の黒人は、平等だが、別々という区別の概念で差別されています。
教会も居住区も、学校もプールも黒人と白人が別々の州や町が厳然としてあります。
合衆国憲法の下では黒人も白人も平等なのですが、その平等の中に、区別という差別が今も厳然として立ちはだかっているのです。
空海は人間のこうした一面を千年以上も前の時代に理解していたのです。

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# by toukokira-kira | 2018-07-20 21:04 | Trackback | Comments(0)

無我の大我

「無我の大我」という言葉は、空海の言葉です。
真の自分、本当の自分にたどりつけという意味です。
ありのままの自分、あるがままの自分にたどりつけといっているのです。
ありのままに自分を認めて、それを受け入れると、本当の自分にたどりつけますよ、と空海は教えてくれているのです。
それを無我の大我と言います。

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# by toukokira-kira | 2018-07-20 20:57 | Trackback | Comments(0)

如の理、空の智

私は、古流神道の修行者ですが、仏教・真言の祖空海は大好きな人物です。
幼い頃、よく母に連れられて、町中のお大師さんにお参りいきました。
その時に、霊媒師に降霊したお大師さんが、お前を守ると言ってくれたことを覚えているからです。
「如、如、如、如の理」
「空、空、空、空の智」
弘法大師空海は、如の理、空の智と唱えられ
あるがままに、おおきな心で生きよ、と説かれています。

「悲しい哉、悲しい哉、悲の中の悲なり。」
そういう空海も、愛する愛弟子を失ったときの悲しみは、相当に深かったようです。
悲の中の悲なり、とは悲しみを乗り越えていく空海の実声です。

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# by toukokira-kira | 2018-07-20 17:24 | Trackback | Comments(0)

空海の「大楽」

嬉しいこと、嫌な事、悲しいこと、楽しいこと、人生の様々な出来事の中で、いつも心はあちらへ、こちらへと揺れ動いています。
もちろん、いつも楽しいことばかりであればよいのですが、そうもいかないのが現実であり、世の中です。
そんな喜怒哀楽の人生の中で、大いなる楽しみを見つけ出そうとするのが、空海の教えです。
大いなる楽しみ「大楽」と云っても、単に楽しみを大きくしたものではありません。
苦楽のいずれにも囚われない本当の意味での生き方、自由な安らかな生き方、
そして豊かな境涯のことを「大楽」と言います。
勝ち負けに拘らず、苦楽にとらわれず、一喜一憂しない生き方です。
喜怒哀楽を超越した生き方を「大楽」と言っているのです。
この境遇は、欲望や執着から離れた生き方であり、なにものにも囚われない自由な、そして豊かな生き方を示しています。

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# by toukokira-kira | 2018-07-20 16:37 | Trackback | Comments(0)

伴侶を失う悲しみ

親を亡くする悲しみよりも、人生の伴侶を失う悲しみのほうがはるかに大きいようです。
最愛の夫や妻を突然に失う悲しみの深さは、筆舌を尽すものであり、親を亡くす悲しみの3倍に達する喪失感だそうです。
その喪失感は、自分の身体の半分が無くなったような深い喪失感で、何年経ても、その心の傷は癒えず、立ち直ることができません。
日常の中で、伴侶と共にシェアしていた喜びの感情、悲しみの感情は、行き場を失い、虚空を彷徨います。
働き盛りの夫を失って、幼い子供たちと共に生きていかなければならない妻は、深い喪失感の中で、苦しみ続けます。
街中で、夫婦仲良く子供を連れて歩いている家族の姿を見ると、羨ましくなり、胸が締め付けられて、苦しくなります。
この世の中には、そういう方々が大勢いて、子供のために立ち上がって、必死に生きています。
心が折れそうになりながらも、慣れないパートを掛け持ちしながら、生計を支えます。
心が折れそうになっている人には、「がんばるのよ」という励ましの言葉は禁句です。
その人の悲しみに少しでも寄り添えるような心配りが大切です。
今の世にも、若くして最愛の夫をなくし、幼い子供を何人も抱えて、路頭に迷いつつ、必死に生きている人々が大勢いるということです。
そうした方々に希望の光が灯りますように念じたいと思います。
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# by toukokira-kira | 2018-07-19 19:35 | Trackback | Comments(0)

愛すること

愛されたくて愛したんじゃないよ・・
そうです、愛されるよりも、愛することです。
愛されることは、必ずしも、幸福ではありません。
しかし、愛することは、いつも幸福です。
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# by toukokira-kira | 2018-07-19 17:23 | Trackback | Comments(0)

不安

不安と恐れのない人間なんて、この世に存在しませんよ・・
みんな何がしかの不安と恐怖に脅えて過ごしています。
そして誰もが苦悩し、葛藤し、後悔しています。
それが人間というものです。
不安に打ち克った者は、もはやこの世に生きるものではありません。
そういう人がいるとするならば、神の中に、永遠の中に生きている人です。
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# by toukokira-kira | 2018-07-19 10:58 | Trackback | Comments(0)

世の中を支配するのは

世の中には、地位や名誉、名声を崇拝する人間がいます。
英雄や天才を崇拝する人間もいます。
また、権力を崇拝する人間もいます。
神仏を崇拝する人間もいます。
そして、彼らはいつも、こうした架空のことをめぐって
議論白熱しています。
しかし、彼らの誰もが一様に崇拝しているのは「お金」です。
それ故に、お金を支配するものが、世の中を支配します。
昨今は、七夕の短冊に、幼子までが「金が欲しい」
「大金持ちになりたい」と書くそうです。
総理大臣になりたいと書くような子は一人もおりません。
誰もがお金の亡者ですから、良くも悪くも
お金至上主義、金権主義はしばらく続きそうです。
こういう世の中にあっては、お金の伴わない正義は、力のない正義となります。
正義は力なのですが、その正義の本質はお金のようです。
どんなに立派な人物でも、お金のない人間はあまり尊敬されない世です。
お金のある人物のところに人々は羨望をもって集まろうとします。

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# by toukokira-kira | 2018-07-19 10:23 | Trackback | Comments(0)

説教好きな人

世の中には説教好きな人がたくさんいますね。
私もうっかりすると、ついつい説教していることがあります。
頼みもしない説教など、余計なお世話です。
一般的に、説教好きな男は偽善者であり、
説教をする女というのは、器量が悪いのだそうです。
これは、世界の不朽の名作「サロメ」を書いたオスカー・ワイルドの人物の見立てですが、怖ろしいほどの慧眼です。
世の中の真実を如実に言い当てていると思います。
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# by toukokira-kira | 2018-07-19 10:04 | Trackback | Comments(0)

本物の賢人とは

皆さんが知っている歴史や人物は、支配者側にたった歴史、人物です。
地位、名声、名誉、権力を摑み取った者の歴史です。
いわば戦い、権力闘争に勝った者の歴史です。
名声など何の価値があるのでしょうか。
人を一人殺せば殺人ですが、何万人、何十万人を殺すと、呼び名は殺人者から英雄へと変わります。
天下の武将とは、そういう人たちです。
信長も、秀吉も、家康も、多くの人を殺めた罪で、今なお地獄で閻魔大王に厳しく折檻されています。
真に価値ある人間は、無名です。
有名ではありません。
ですから、歴史には登場してきません。
後世に知られることもありません。
ですが、歴史に登場してこない人物の中にこそ、本物の賢人が隠れています。
私は、そういう視点を大事にしています。
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# by toukokira-kira | 2018-07-19 09:54 | Trackback | Comments(0)

1%の真実

私達は神でも仏でもありません。
赤い血の通った葛藤し、後悔する人間です。
生身をもった苦悩する人間なのですです。
釈迦やキリスト、聖人君主といえども、私たちと変わることなく同様です。
自己犠牲は、偽善であると喝破する哲学者もいますが、
1%は真実であり、確かに99%は偽善かもしれません。
どんなに身勝手な自分本位な人間でも、相手によっては真実の自己犠牲を示すことがあるということです。
その1%の真実によって、男女の恋に発展し、愛が生まれます。


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# by toukokira-kira | 2018-07-19 09:41 | Trackback | Comments(0)

裏道は花の道、宝の山

楽な道は探せばいくらでもあります。
人はみんな大きくて、広い、なだらかな道を選んで行きます。
誰もが行くそんな大きな道には、新しい発見などはまずないでしょう。
私達修行者の行く道は、人のめったに通らない細い険しい裏道です。
たとえ道がけわしくても、苦しくても、でも、行こうじゃないか、です。
誰も行かぬ裏道は花の道、宝の山だからです。
行くところあちらこちらで新しい発見、不思議な体験に遭遇することでしょう。
裏道は花の道なのです。
ですから、人の行かない裏道を探して行こうじゃないか、です。
冒険家は人の行かない前人未到の地に足を踏み込むから、新しい発見であふれかえっているのですよ。

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# by toukokira-kira | 2018-07-18 20:56 | Trackback | Comments(0)

トルコ行進曲の秘密

トルコ行進曲を聴いていると、まさに、音楽こそは精神を別次元の別世界の感覚に誘ってくれる魔法だと感じます。
トルコ行進曲には不思議なファクターが内在しています。
テンポの速い演奏を聴いていますと、脳が活性化してきます。
脳内がアルファー波に変わり、超集中状態となりますので、潜在意識に働きかけるには絶好のチャンスとなります。
トルコ行進曲の演奏を聴いていると、潜在意識が自然と作動してきます。
ですからトルコ行進曲を聴きながら、イメージ瞑想するのが一番よいということになります。
潜在意識に強くイメージを刷り込むことができます。
トルコ行進曲には、不思議な音霊の秘密が隠されていますよ。
演奏スピードを速くすればするほど、脳が覚醒反応してきます。
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# by toukokira-kira | 2018-07-18 20:36 | Trackback | Comments(0)

月裏のクレーター

人間はみな月だ。
月裏と一緒である。
誰にも見せたことのない不気味な暗い面を持っている。
月面のクレーターのように深くて不気味なのが、人間のもう一つの顔です。
誰もが例外なくもっています。
人間って本当はこわいのですよ。
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# by toukokira-kira | 2018-07-18 18:14 | Trackback | Comments(0)

人間の原罪

創生期のアダムとイブのお話は、キリスト教徒だけのものではありません。
イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、アブラハムの宗教の兄弟たちは、みな共通してアダムのリンゴのお話を信じています。
そして、アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴを食べたかったからではありません。それが禁じられていたから、ということだけのことです。
人間は、禁じられたり、してはいけないと云われたりすると、余計にやりたくなるような生き物のようです。
ここに人間の原罪があるのだそうです。
だから人間は、してはいけないと言われた禁じられた遊びに夢中になるのです。
世の中には、禁じられていること、してはいけないということが山のようにたくさんありますが、そういう禁を破って、禁じられていることにあえて手を染める人間が後をたちません。
アダムの原罪が人間の罪をつくっているようです。

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# by toukokira-kira | 2018-07-18 11:45 | Trackback | Comments(0)

愛と自己犠牲

愛だの、恋だのをテーマに記事を書くと楽しいですね。
自己犠牲は、偽善であると断定する哲学者が多いのですが、愛の本質は、まさに自己犠牲そのものです。
自己犠牲とは、相手のために自分のすべてを捧げ尽くすということです。
俺が、俺がという自分本位な身勝手な人間でも、相手によっては自分を空しくして、相手本位になれるときがあるのです。
そういう相手本位の心の波動が相手の心を動かし、恋が生まれ、愛が生まれるのです。
自己犠牲であるときのほかは、愛の名に値しないと喝破する文豪もいますが、愛とはまさにそういうものだと思います。
自分のすべてを投げ打っても悔いはない、自分のすべてを捧げ尽くして惜しくない、という自己犠牲に基ずくものが本物の愛だと思います。
無償の愛、打算のない愛、見返りを期待しない愛など、最近はあまり聞きませんが、
そういう真実の愛のみが、我々を決して裏切ることのない、唯一の愛です。
昨今の容姿、年収,身長がどうだの、こうだのと注文をつけるような相手探しでは、本当の愛を得ることはできません。
自分のすべてを捧げ尽くした相手が、たまたま容姿も、身長も、年収も申し分なかったというのがベストなのですよ。
打算の多い昨今ですが、生涯に一度は真実の愛に生きて、生涯の伴侶をゲットしてみてはどうですか。

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# by toukokira-kira | 2018-07-18 11:29 | Trackback | Comments(0)

忘却が一番です

世の中の名誉や名声などと云うものは霧のようなものです。
いつの間にか消えてなくなるものです。
人気は偶然の出来事です。
人気は水もの、水の流れのように去っていきます。
この世でただ一つ確実なものは、それは忘却です。
何事も忘れ去ることが一番です。
水の流れのようにサラサラと、ですよ。
そして、心はいつもきちんとしておくべきでしょう。
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# by toukokira-kira | 2018-07-17 12:35 | Trackback | Comments(0)

★★★釣り合いの法則

私の人生の哲学思想を余すことなく書き綴った一文が、「釣り合いの法則」という記事です。過去記事ですが、このブログの中で私の哲学思想を表す代表的な記事です。今もよく読まれている記事の一つです。
皆さんに伝えたい、私の熱い思いがここに凝縮して表現されていますので、何度も再掲しています。是非読んでみてください。

■釣り合いの法則
世の事物には、釣り合いの理が必ず存在しています。
極端な得意絶頂の時には、その後に必ず失意絶望の時が来ます。
絶頂の最中に、奈落の底が口を開けて待ち構えているのです。
逆に、失望、逆境の最中に、希望の光が点りつつあるのです。

人間は、絶頂、平安な時こそ、用心を怠ってはならないのです。
絶頂の最中に、有頂天になり、油断して、驕り高ぶっていると、落とし穴に落ちていきます。
奢れるもの久しからず、栄枯盛衰の理のとおりです。

極端な失意の後には、歯を食いしばって頑張っていると、やがて必ず喜びの時がやってきます。
奈落の底に落ちたときでも、その後には、希望に満ちた栄光の時が待っています。人生の禍福は糾える縄目のごとしです。

禍福が交互に、縄目のように織り成して現れます。
良い事も長くは続きませんが、悪いことも長くはつづきません。
辛抱、我慢、努力が大切です。

陽気が続くと、陰気がやってきます。
喜びのあとには、悲しみがやってきます。
苦しみのあとには、楽しみがやってきます。
楽しみのあとには、苦しみがやってきます。
苦楽の人生とはよく言ったものです。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、というのが人生の本質です。
世の事物には釣り合いの法則が働いて、禍福、善悪、苦楽が交互に縄目のようにやってきます。

絶頂だからといって、浮ついていられないのです。
全盛期こそ用心すべき時なのです。
喜怒哀楽、一喜一憂の人生ですが、失意泰然、得意平然、死中活あり、です。

寒さ暑さは天地の呼吸ですが、苦楽、禍福は人生の呼吸です。
一喜一憂するには当らないのです。

苦しみの中にも、楽しみを見出す工夫が大切です。
人生はあせらず、ゆったりとです。
急がば回れです。
急がないことは早く片付け、急ぎの用は、ゆっくりやるのがよいのです。

自分が感動しなければ、他を感動させることができないように、まずは、自分を処することが大切です。
人生の中では、順境のあとに逆境が、逆境のあとに順境が交互に訪れてきます。順境も逆境も心の持ち方一つです。

逆境の人は、失望しないで、順境の時のように心を安らかに対処し、順境の人は、逆境の時を忘れず、油断してはなりません。

今綴ってきたことは、全部波動の法則、交換の法則です。
作用、反作用の法則、釣り合いの法則ともいいます。
この法則に従うと、幸せを求める方法は、人に恵むこと、人に施すことにあります。そういう意味での「親切心」が一番です。

与えれば、与えられるのです。敬すれば尊敬されるのです。赦せば、赦してもらえるのです。情けは人の為ならず、なのです。

出世競争に目がくらみ、必死でしょうが、争い焦る心を忘れて、ただ職務に専念すると、たちまち昇進するのですよ。

組織社会にあっては、老子がよい言葉を残してくれています。
最上の者は、下の者からただその名を知られる者なり。その次は、親しまれ、讃えられている者、その次は、畏れられている者、その次が、侮られる者である。と述べています。

この意味を自分なりに考えてみてください。
足るを知れば、辱められず、止まるを知れば危うからずです。侮られない生き方です。

虚心坦懐にして、我見がなければ、他人を受け入れることができます。
組織社会では大切な心構えです。
我欲、我執、我見に囚われて、引き摺られて生きているのが人間です。
これらは、争いと衝突、対立のもとになり、身を滅ぼすもとになります。

少しでも驕り高ぶる気持ちがあれば、天地の道理が損なわれるのですよ。
地位、名誉、栄光を求める心は、天地の道理と調和しない心です。
人間の苦悩というのは、そういう我欲への執着から生まれるものであり、そうした生き方から離れる生き方がのぞましい。
富や地位や名声はなくとも、そういう我欲から離れ、素晴らしい思い出、幸福な思い出で心を一杯にすることのほうが肝要なことである。




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# by toukokira-kira | 2018-07-17 11:20 | Trackback | Comments(0)

男と女の真実

ある西洋の大哲学者によると、男は、退屈から逃れようとして結婚し、女は好奇心から結婚するそうです。
相手を見定めることなく、退屈や好奇心から結婚するゆえに、双方とも失望するのです。
こんなはずではなかったと、必ずそうなります。
それが限界を越えてしまうと、離婚です。

女が再婚するのは、前の夫を嫌っていたからです。
男が再婚するのは、前の妻を熱愛していたからです。
微妙な違いがあるようですが真実のようです。

女は運を試そうとし、男は運に賭けるのだそうです。
これらは男と女の真実かもしれません。
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# by toukokira-kira | 2018-07-17 10:18 | Trackback | Comments(0)

人生に必要なものは

人生に必要なものは、何だと思っていますか。
一言で申し上げると、素晴らしい思い出と、精神的な豊かさだと思います。
素晴らしい素敵な想い出をいっぱいつくって、心を幸福な思いで一杯にすることです。
そして、人にやさしく親切にし、思いやりの心をもつことです。
我欲である欲望と執着に翻弄されると、苦悩と葛藤、煩悩に苛まされるだけです。
富やお金、地位や名誉、権力や名声などは、我欲に属するものですから、苦悩と葛藤の根源となります。
そんなものを掴み取ろうとすることよりも、素敵な思い出をいっぱいつくって、幸福な思いで一杯にすることです。
お金や名声などは、一旦手に入れてしまうと、あとは重荷になるだけですよ。


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# by toukokira-kira | 2018-07-17 10:02 | Trackback | Comments(0)

大器晩成

大器晩成とは、「老子」の41章に記されている言葉で、「大方無隅、大器晩成、大音帰聲、大象無形」から抜粋されてものです。

大きな四角形は角が見えず、大きな器はなかなか出来上がらない、大きな音はかえって聞こえず、大きな形は形として見えない。という意味です。

ここから、大きな器がなかなか出来上がらない事と同じように「偉大な人物ほど徐々に大成するため、世に出るまで時間がかかる」という意味で用いられるようになりました。
無理に急いで真価を問い、早くから大成するよりも、一段一段、確実に階段を昇っていく大器晩成型が一番よいということです。
当たり前のことを当たり前のように、毎日コツコツと粘り強く努力して取り組める能力というのは、地味でありますが凄い能力だと思います。
一歩一歩、一段一段、懸命に努力して、確実に前進していく大器晩成型の人が偉業を成し遂げる人となります。
当たり前のことを、当たり前のように、毎日コツコツと取り組めない人というのは、大業を成すことはできない人です。
習慣は偉大な怪物ですから、そういう習慣を身につけると、人生が大きく変わっていきます。


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# by toukokira-kira | 2018-07-17 09:17 | Trackback | Comments(0)

福沢諭吉の心訓

明治時代の教育者、福沢諭吉の心訓です。
宗教家の説く戒律、処世訓よりも判りやすいですよ。
これを座右の銘にしている著名人も多いです。
・世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことです。
・世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。
・世の中で一番寂しいことは、する仕事のないことです。
・世の中で一番醜いことは、他人の生活をうらやむことです。
・世の中で一番偉いことは、人のために奉仕し、決して恩にきせないことです。
・世の中で一番美しいことは、総てのものに愛情を持つことです。
・世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことです。
誰もが理解のできる心訓です。
その中でも、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情をもつことです、と言っておられることに感銘を受けました。
何故ならば、人間の苦悩の根源は愛の不足により生じるからです。
苦しみも、悲しみも、寂しさも、怒りも、憎しみも、妬みも、それらのすべては愛の不足が原因で生じているものです。
すべてにおいて愛に満ち足りていたならば、人間というのは、欲望や執着、苦悩、葛藤から開放されるのです。
愛こそすべての根源なのです。
明治時代の福沢諭吉がそこまで思索が耕やかされいたということですから、まさに驚きです。やはり只者ではありません。

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# by toukokira-kira | 2018-07-16 20:42 | Trackback | Comments(0)

何とかなるものです

私は、サラリーマン時代に管理職を10年間ぐらい経験しているのですが、部下に「できるか?」と聞くと「そんなことできません、無理です」といとも簡単にそういう返答をする人が多々いました。
私が駆け出しの新米の頃は、「できるか?」と聞かれたら、即座に「できます」「やってみます」と答えるように訓練を受けていました。
何があっても「できません」は禁句でした。
ですから、私はいつもとりあえず「できます」と即答して返事することにしていました。

自分の能力をはるかに超えた難しいハードルの高い仕事でも、「できます」と取りあえず返事するのです。
何をどこからどのように取り組んだらよいのか、皆目検討がつかない中で手探りで仕事がスタートしていました。
その習慣のお陰で、仕事に関しては相当苦労しました。
返事した後に,不眠不休で懸命に研究し、やり方を見つけるように最善を尽くしました。
もちろん、家に持ち帰って、能力の足りない分を必死で補いました。
ですから、職場でも、自宅に帰ってからも、ずっと仕事でした。
土曜、日曜は仕事の遅れを挽回するための格好の時間帯でした。
そんなわけで本当の意味での休みはありませんでした。
どういうわけか、そんなふうに一生懸命にやっていると、アイデアが次から次へと浮かんだりして、何とかなるのです。
失敗もしますが、乗り切れなかったことは一度もありません。
必死でやれば何とかなるのです。
やってみて「できない」のは許せますが、やろうともしないで「できません」という人は到底許せない人となります。

自分の無限の可能性を信じて、不眠不休で努力し、最善を尽せば、どんな難問でも、道は開けてくるものです。
がんばって努力すれば、何とかなるのです。
私の経験から、そう断言できるのですよ。

ですから、やろうともしないで、「できません」は禁句ということです。

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# by toukokira-kira | 2018-07-16 09:46 | Trackback | Comments(0)

欠点という長所

人間には誰にでも欠点があり、失敗から人生を学びます。
まさに人生は失敗の連続であり、そこから多くのことを学びます。
失敗は「成功の母」であり、「人生の師」であります。
それこそ、七転び八起き、八転び九起きの人生です。
人によっては百回,千回と転んでは立ち上がることでしょう。

転ぶのは決して恥ではありません。
転んだままでいるのが恥なのです。

失敗は断じて恥ではありません。
失敗したままでいるのが恥なのです。

そして、人間の長所は、
欠点があるということです。
だから、ミスを犯さない人間は、
何もできません。
ミスや失敗を畏れてはなりません。

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# by toukokira-kira | 2018-07-15 16:20 | Trackback | Comments(0)

大和言葉「まつる」

古流神道は、「むすび」と「まつる」が判らないと、先にすすめません。
以前、「むすび」について書きました。
今回は「まつる」です。
大和言葉で「まつる」とは、漢字で「祀る」「祭る」と書きます。
「まつる」とは、自分のすべてを、生命までも悉くそれに捧げ尽くすことを云います。
神を祀る、というふうに使いますが、祀るということは、簡単なことではありません。
「まつる」とは、自分の全生命を賭けて捧げるということです。
相当に強い信仰がなければ成り立たないものです。
「まつる」神の命令であれば、命も惜しくないという精神につながっていきます。
この精神が武士道の葉隠れの精神に結実していきます。
日本の精神を論ずるためには、「むすび」と「まつる」を理解しなければなりません。
西洋では「いかに生きていくべきか」という精神が人々の中心にありましたが、日本の武士道精神では、「いかに死んでゆくべきかか」という精神性が根幹にあります。
そしてその武士道精神の大本は、「むすび」と「まつる」の中にあります。

日本の精神は、我欲を絶つところから始まります。
我欲を絶ち、執着から離れる。
だから潔いのです。
我欲は、「我」と「欲」です。
執着から離れるということは、自分の命さえも惜しまないという精神に昇華します。
そういう意味で「いかに死すべきか」という武士道精神の源流が「まつり」にあります。

さて、人間の叡智とは、深い直観のことを言います。
この叡智は、我があると開きません。
我がなくなれば、なくなるほど、
欲がなくなれば、なくなるほど、
執着から離れるほど、
深い直観が開かれてきます。
直観とは、大宇宙からの直接情報であり、神からの伝言を言います。
我欲と執着から離れた清らかな魂になると、深い直観が開かれてくるということです。
仏陀は臨終の最期に「我欲、我執、我見の消滅」と言いました。
欲望と執着こそが、人間の苦悩の根源だからです。

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# by toukokira-kira | 2018-07-15 15:53 | Trackback | Comments(0)

生きる勇気こそ

金を摑んで、それを失う者がいる。
地位と名誉を摑んで、それを失う者がいる。
権力を摑んで、それを失う者がいる。
盛者必衰の理,奢れる者久しからず、なのですが、
どれもこれも被害は甚大で、些細なことではない。
しかし、金も、地位も、名誉も、権力も、すべては欲望と執着の産物、
苦悩の根源なのですから、失ったほうが身が軽くなります。
ところが、勇気まで失うことになったら、
それどころではない。
勇気を失うと、すべてを失うことになるからです。
だから、有名人になった人でも、
金や、名誉、地位とは無関係な生き方、
そういうものとはかけ離れた生き方を選択している人もいるようです。


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# by toukokira-kira | 2018-07-15 13:34 | Trackback | Comments(0)

運命の法則

人間には、どうやら運命の法則というものがあるようです。
「光と影」がバランスを取ってその人に同居しているからです。
光と影が釣り合ってバランスを取りあっているのが人間の人生です。
ですから、光が強ければ、その影もまた強大です。
光が弱ければ、その影も弱いのです。

つまり、人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要とされているということです。
光と影、つまり幸福と不幸がバランスを取って釣り合っているということです。
幸福なことののちには、やがて不幸なことが訪れるということです。
ですから、よいことばかりが長く続かないし、悪いことばかりが長く続くこともありません。
これが運命の法則です。禍福は交互にやってきます。
それ故に、「禍福はあざなえる縄目の如し」と言われてきたのです。
人生の中で、禍福、吉凶は縄目の如くに、交互にやってきます。
絶頂の最中にも、最悪のどん底の穴が待ち受けているということです。
最良、絶頂の時ほど、有頂天になってはいけないのです。
絶頂を極めると、あとはストーンと堕ちていくばかりなのです。
ですから絶頂の時こそ、油断せずに、次の最悪に備える必要があるのです。
反対に、絶望の極みの中にも、希望の光が灯りはじめているということです。
悪いことばかりが続くわけではなく、悪いことのあとには必ずよいことがやってき
ます。
光と影が釣り合ってバランスを取っているから、だいたい禍福は交互にやってくるものなのですよ。
ですから絶望期にあっても悲観する必要はありません。
よいことも長くはつづきませんが、悪いことも長くはつづかないのです。
そして、絶望の最中に、希望の芽が灯りつつあるのが人間の運命というものです。
人生の禍福に一喜一憂していると、運命に翻弄されるばかりですよ。


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# by toukokira-kira | 2018-07-15 13:19 | Trackback | Comments(0)

努力は人を裏切らない

目標を達成するには
全力で取り組む以外に方法はありません。
そこに楽な道や近道はありません。

努力は必ず報われます。
努力はウソをつかないのです。
努力は決して人を裏切りません。
もし、報われない努力があるとすれば、
それは、まだ努力とは呼べない段階のものと知りましょう。

少なくとも「ああ、もう駄目だ、限界だ」と思うほどの懸命の努力が努力には必要です。
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# by toukokira-kira | 2018-07-15 09:36 | Trackback | Comments(0)

何とかなるのです

山が高く険しいからといって
戻ってはなりません
行けば 越えられるのです 
ぶつかっていけば 何とかなるのです

仕事で困難に直面しても
ひるんだり 逃げ出してはなりません
行えば 必ず終わるのです
最善を尽して努力すれば 何とかなるのです

最善の努力を尽くした人が報われなかったことなど、私は知らない。

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# by toukokira-kira | 2018-07-14 21:54 | Trackback | Comments(0)

人間は常に前進していないと、後退するばかりである。
進まざる者は、必ず後退するのです。
逆に、後退しない者は、必ず、前進している人です。

もうこれで十分満足だと言う時、すなわち、衰えていく時です。
もう極めたと思った瞬間から、後退が始まります。
悟った、道を究めたという人は、その瞬間から真っ逆さまに墜ちていく人となります。
切磋琢磨して、前進していないと、現状を維持することも難しくなるのです。
超一流のレベルを維持するには、そこに到達した時の何倍もの努力が必要になるということです。
一流のレベルを維持することは、限界に挑戦することであり、過酷でつらいことなのです。
とにかく、人間は前進していないと、後退するばかりということです。

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# by toukokira-kira | 2018-07-14 21:44 | Trackback | Comments(0)