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痛みの常識を疑う

これまでいろいろと「痛み」について書いてきました。
それというのも、痛みについての常識を根底から白紙に戻したいからです。
そうでなければ治る世界に入っていけないのです。
医者から「骨が、軟骨が」と言われると、それが頭に刺さって、抜けません。
しかし、そんな西洋医学がつけた病名、病状、常識に左右されてはならないのです。
整形外科医は、椎間板ヘルニア、脊椎管狭窄症、腰椎すべり症、腰椎分離症、脊椎変形症などの原因を骨の歪み、ズレにあり、それが神経を圧迫して痛むと言います。
しかし、脊椎変性と痛みとは無関係です。
どんな病名がついても、骨、軟骨変性と言われても、痛みとは関係がありません。
筋肉異常を正常化さえすれば、すべてが解決します。
痛みは、ハードのトラブルではなく、ソフトのトラブルだということです。
筋肉異常の原因を解決し、筋肉を正常化すれば痛みは消えてなくなります。
筋肉異常は圧痛点となって顕れるので、そうしたトリガーポイントを正常化し、心の不安定要素をなくせば治るということです。
痛みは、痛み自体が交感神経を緊張させます。
不安や怒りがストレスとなって神経や筋肉を緊張させます。
そして血流障害を起しているのです。
血流が悪くなると、栄養も酸素も不足し、発痛物質が神経を刺激し、「痛い」「痛い」となるのです。
病名や症状、常識に左右されないことが大切です。

# by toukokira-kira | 2019-05-24 19:52 | Trackback | Comments(0)

痛みは心のトラブル

このところづっと「痛み」について考察してきました。
痛みは、一言でいうと、「怒り」「憎悪」のなせる業と言えます。
そうした心の作用によって痛みが発生しているということです。
ですから、私は「腰痛は怒り」であると言っているのです。
そして、長期にわたって、苦悩、困惑があると、痛みは確実に慢性化します。
心の動き、心の作用、心のトラブルが「痛み」をつくるといことです。
脳の扁桃体、線条体、側坐核などの機能にトラブルが生じて慢性痛をつくります。
まあ言うなれば、筋骨格系の痛みは、「ストレス反応」といことです。
ストレス反応の状態が悪化していくと、しだいに慢性化の状態も悪化していきます。
どういうことかというと、ストレス反応には「はしご段」があり、一段登っていくごとに慢性化していくということです。
はしご段の一段目は「情けない」という想いです。
ストレス反応の始まりは、この「情けなさ」から始まります。
2段目は、「不安と畏れ」です。
3段目は、「自責の念」です。
4段目は、「無力感」です。
5段目は、「抑うつ」です。
6段目は、「社会的な孤立」です。
7段目は、「自我の喪失」です。
8段目は、「痛みが自分のすべて」という想いに至ります。
この1段目から8段目までのストレス反応の分類を覚えておくと、急性から慢性化にいたる経過と機序がよく判ります。
昨今は、孤立した老人、若者がたいへん多いようです。
ストレス的には、最も重篤なストレス反応が孤立、孤独の感情です。
孤独者の怒りが爆発すると、身体的には、極限の痛みに襲われて苦しむことになります。
怒りに翻弄され、欲望に呑み込まれ、執着の権化になると、自分を完全に見失います。そしてやがて自我の喪失状態に至ります。
やはり、健康のためには、幸せで、仲良く、楽しくが一番よいのです。






# by toukokira-kira | 2019-05-24 15:43 | Trackback | Comments(0)

痛みのメカニズム

これまでに慢性痛の原因である脳のdlpfc(脳の前頭前野のDポイント)と扁桃体との関係について綴ってきました。
DLPFCは判断力を担うので、ここが弱ると、人格の発現、適切な社会的な行動が出来なくなります。
また、意欲、活力をも担うので、一つの仕事に集中する能力の源泉を失うことになります。
DLPFCは脳の中で最も進化した部位であり、大切なところです。
日本ではまだ認可されていませんが、海外ではこのDLPFCへの磁気刺激療法が普及しています。
現在、ストレス社会の到来の中でうつ病患者が増加していますが、うつ病のカギを握っているのが扁桃体です。
こうした扁桃体の暴走を抑えるのがDLPFCです。
人間のストレス情報は脳の扁桃体に入ってくるのですが、この扁桃体は神経細胞の集まりであり、不安や恐怖、悲しみの感情を生み出すところです。
入ってきた情報を扁桃体が不快と判断すると、扁桃体は興奮します。
そして扁桃体にたくさんの血流が流れ込み、過剰な反応を示すようになります。
そうすると、コルチゾールというストレスホルモンが分泌されます。
コルチゾールが分泌されると、「怒りのホルモン」であるノルアドレナリンが分泌されますので、闘争本能に火がつきます。
またコルチゾールが血中に流れると、血液中の免疫細胞と結びついて、その結果、免疫細胞の活動が停止状態になってしまいます。
不安や恐怖、怒りや悲しみというストレス感情は、扁桃体を狂わせ、DLPFCを衰えさせ、免疫細胞の活動を弱め、さらには慢性の腰痛やうつ病を発生させます。
まさにストレス感情こそが万病の元と言っても過言ではありません。
このDLPFCの働きを正常化させる治療が磁気刺激療法なのですが、私は磁気の代わりに宇宙生命波動の刺激を脳のDLPFC部位に与えて治療しています。
そうすることによって扁桃体の過剰な活動を抑制できる効果を生み出します。
今日も私のDLPFCに関する臨床応用の研究が続きます。
DLPFCが正常に働いているうちは、痛みを抑えるホルモンが分泌されますが、長期のストレスなどで、機能しなくなると、痛みの悪循環が生じます。
そして、痛みが慢性化するのは、脳で痛みの情報が記憶されるからです。
筋肉の末梢神経が発痛物質を出すと、知覚神経が興奮し、同時に交感神経が興奮します。
そうなると、血管がれん縮し、筋肉が緊張します。
筋肉が緊張し、硬直すると、末梢循環障害が生じ、患部の酸素、栄養が欠乏し、老廃物が蓄積します。
そして、発痛物質が再生産されて、痛みの悪循環が始まります。







# by toukokira-kira | 2019-05-23 19:07 | Trackback | Comments(0)

痛みの生理学

私は、世間一般の整形外科医とは見解を異にしています。
何度も言ってきましたが、筋骨格系の痛みや痺れは、ガン、骨折、脱臼、打撲、捻挫、感染症、内蔵疾患を除き、それはハードのトラブルではなく、ソフトのトラブルです。
ソフトのトラブルとは、心のトラブル、心の作用が起因しているということです。
自律神経の緊張、条件反射、痛みの習慣、記憶、注意過剰などのソフトの異常です。
そして、痛みはとても個人差の大きなものです。
神経が押さえられているから痛いという生理学は間違いです。
軟骨が、椎間板が潰れているから痛いといのも勘違いです。
「脊椎すべり」や「脊椎分離」『脊椎管狭窄」があるから痛いというのも同様です。どんな病名がつこうと、痛みと骨、軟骨は無関係でs。
骨盤、仙骨にズレ、歪みがあるから痛い、姿勢が悪いから痛い、筋力がないから痛む、これらは全部迷信です。
心の動き、心の作用、交感神経の緊張が外力エネルギーとなってセンサーに電気信号を送るから痛いのです。
こうした痛みは、さまざまな筋肉異常を正常化することによって解消されます。
病院で名づけられた病名、症状など気にすることはありません。
骨が、軟骨がと言われても気にする必要はありません。
そんなものは痛みとは無関係なのですから。
異常な筋肉を正常化さえすれば、痛みは消えてなくなります。
私はこうした信念にもとづいて、筋肉に焦点を当てて治療を行っています。








# by toukokira-kira | 2019-05-22 17:54 | Trackback | Comments(0)

痛みの真実

みなさん誤解していますが、軟骨、骨には痛みを感じる知覚神経はありません。
痛みは、骨や軟骨ではなく、筋肉の異常が原因です。
筋肉,腱、靭帯の筋肉異常が末梢の神経を刺激して痛むのが原因で、骨、軟骨には原因はありません。
骨が変形するのは、骨を支える筋肉が骨を引っ張るから生じているのです。
骨は、筋肉の緊張、硬結によって変位させられているだけです。
骨自身に変形する力は一つもありません。
筋肉異常が骨を変形、変位させているのです。
関節粘膜の炎症の痛みのメカニズムとしては、ストレスが影響しています。
ストレスが筋肉異常を起しているのです。
膝の軟骨、腰のヘルニアなど、軟骨の変性と痛みは無関係です。
筋肉さえきちんと緩めてやれば、あっという間に痛みはきえます。
骨が、軟骨がと言っているうちは治る世界には入ってこれません。
筋肉異常があらゆる痛みをつくっているのです。
脊椎管狭窄症であろうと、脊椎変形症であろうと、ヘルニアであろうと、西洋医学上のどんな病名がつこうと、筋肉異常を解消すれば痛みから解放されます。
整形外科に何年も通い続けて、さっぱり良くならないという人の、筋肉をほんの一瞬緩めてあげただけで、痛みは消えていきます。ものの数分です。
治らない世界にいては、いつまでたっても治らないのです。
治る世界に来ると、すぐに治るのです。
痛みは、不安と抑うつがつくります。
不安と抑うつが筋肉異常を引き起こし、痛むのです。
ストレスが大きくなると、痛みを抑制する仕組みが働かなくなり、痛むのです。
そして不安がそれに追い討ちをかけます。
基本的には、原因の筋肉異常を解消してあげ、ストレスを調和してあげると、症状は快方に向かいます。
筋骨格系の痛みやしびれは、ガン、骨折、感染症、内蔵疾患を除き、それはハードのトラブルではなく、ソフトのトラブルなのです。
腰痛、下肢痛、何痛でもよいのですが、その痛みの原因は、骨の変形、変異、ズレではありません。
骨折や、捻挫、脱臼は、骨の変異が原因の新生の痛みですが、それ以外の痛みは、骨に関係ありません。
骨の変形が神経を圧迫して、痛みを出しているのではありません。
痛みの原因は、筋肉組織にあります。
痛みの原因は、筋肉そのものにあるのです。
言い方を変えると、筋肉のバランス状態の質にあります。
骨の変形,変位は全く痛みと関係ありません。
筋肉さえ正常にしてあげれば、痛みは消失します。
ですから、骨の変位、変形が原因と言われて、手術してはなりません。
新たな痛みと新たな変形が生まれます。
それは、一時的な痛みではなく、生涯、取り返しのつかない変形と痛みに変わります。
一生涯、何万倍もの苦しみを背負います。
硬く縮んで、緊張した筋肉さえ緩めてあげれば、すべての痛みは消失するのですから、手術は不要です。
それなのに、腰の骨がずれているといって、腰椎を切断する大手術をするのです。腰椎を鉄のボルトで固定する手術をして、生涯苦しんでいる人が大勢います。手術の結果、幾万倍もの新たな痛みと変形で苦しむのです。
筋肉をちょっと、調整してあげれば、すぐに治るのに、実に勿体無いことです。
整形外科医は、一般的に筋肉には決してアプローチしません。
筋肉に触れて、正常化させようという、そんな発想はありません。病院では、骨折、脱臼以外の筋骨格系の痛みは治りません。
腰痛でどんな病名をつけられても、決して手術してはなりません。
斬ったり、はっつけたりして、手術すると、変形がひどく、もう助けられなくなります。私は、そう確信している治療家の1人です。



# by toukokira-kira | 2019-05-21 10:56 | Trackback | Comments(0)

痛みの記憶回路

慢性痛などによる長期間の持続的に発せられた「痛みの信号」は、痛みの原因が治癒した後も、記憶として神経回路に残ります。
ですから、治っても痛むという奇妙な現象が起きます。
治療家はこのことを知っておくべきでしょう。
痛みの記憶が神経回路に構築されるので、痛みの信号を発し続けることになります。
いわゆる痛みの悪循環というやつです。
この痛みを放置しておくと、更なる複雑怪奇な痛みである「慢性痛」をつくります。
膝でも、腰でも、放置して痛みの信号を発し続けると、痛みの伝達がパターン化されるということです。
痛みの経験、記憶によって、パターン化されて、痛みを発し続けるのです。
患部に意識がゆくだけで、痛んできます。
患部に不安や恐怖がると、何倍にも痛んできます。
患部に注意集中すると、それだけで腰や膝が痛んでくるということです。
これをさらに放置すると、習慣化された身体反応として固定されます。
そうなると、本人も自覚しないわずかな刺激でも痛むようになります。
痛みが習慣化されると、痛みの記憶が固定化されるので、原因がなくなっても痛みます。
例えば、片方の手や足を切断して、手や足がないのに、手が痛い、足が痛いと、激痛に苦しみます。痛みの記憶回路が残っているからです。
こうした脳がつくりだす痛みというのは、モルヒネも効かない七転八倒の痛みとなります。
原因がなくなっても痛む、治っても痛むという「特殊な痛み」というものが慢性痛には付随してきます。
慢性痛になると、なかなか治りにくいといことです。





# by toukokira-kira | 2019-05-20 18:02 | Trackback | Comments(0)

他山の石

私が通っていた大成小学校の校門には二宮尊徳の石像があり、体育館の正面の大額には「攻玉他山」の四文字が刻まれていました。
もう60年以上も前の昔になります。
攻玉他山とは、他山の石を以て玉を磨くべし、という意味の言葉です。
いわゆる他山の石です。
他山の石とは、人の過ちを見て、わが身を正せということです。
他人の誤りや不幸を、「対岸の火事」として観るか、「他山の石」として観るか、によって運命も人生も相当に違ってきます。
私達の小学校時代には、体育館のステージ中央の額に、古いひなびた木製の額に、攻玉他山と大書されたものが掲げられていました。
当時は意味不明でしたが、ありがたい意味の言葉なんだろうなと思っていました。
小学校の正門には、二宮尊徳さんの石像が立っており、芝刈りした木の小枝を背中一杯に背負って本を読む二宮金次郎少年の石像をいつも見て育ちました。
先生や母親から、二宮金次郎は、親を助けるために、働きながら学問をした少年で、昼間は暗くなるまで働き、勉強は夜、人目を忍んで、月の光を頼りに本を読んだと教えられました。高価な蝋燭の火の明かりなどもってのほかでした。
私も夜、二宮尊徳の真似をして、月の光を頼りに本を読んでみましたが、目が悪くなるだけで、読めるものではありません。
そういう記憶が残っています。
もう半世紀以上も前のことです。
私達の眼前には、無限の教訓が広がっています。
無限の教訓を他山の石とするのか、見過ごして傍観するのかによって、人生は大きく変わってくると思います。
人生において「他山の石」とは誠に意味の深い言葉だと思います。
これからの前途洋々たる若人の皆さんに贈るにはぴったしの最上の言葉です。






# by toukokira-kira | 2019-05-20 17:27 | Trackback | Comments(0)

魂の破局とは

魂は、愛と自由と信頼の波動で最高の状態となります。
とくに大事なのは、「自由」です。
魂の自由が一番大切です。
愛と信頼も非常に大切ですが、魂の自由はとても大切です。
魂の自由とは何でしょうか。あなたの魂は自由を得ていますでしょうか。
このブログでは何度も綴ってきましたが、自由な魂こそ、理想の魂の姿です。
心の自由度を失った魂とは、欲望と執着に囚われた魂のことであり、魂にとって悲しい存在です。
人間の場合には、仏陀であるお釈迦様は。魂が囚われる原因として、108つの煩悩、苦悩であると説いています。
煩悩の中でもとくに執着と欲望が魂の自由度を奪います。
釈迦は最期の入滅の時、菩提樹の下で静かに横たわり、「アーユサンカーロオサットーバーヤダンマーサンカーラー」とバーリー語の言葉を短く発せられました。
その最期の言葉の意味は、「我執、我欲、我見の消滅」です。
釈迦の弟子たちに、人間にとって一番大切なものは、我欲、我執、我見の3つの消滅だと云われたのです。
これこそが魂ガ自由を得るための唯一の方法であると云われたのです。
キリストや仏陀、マホメットなどの聖人の魂は、自由な魂でした。
この現実世界を自由自在に逍遥する魂こそ、目指すべき魂の姿です。
何者にも引き摺られず、囚われず、迷わず、執着せず、呑み込まれず、翻弄されず、という魂のことを「自由な魂」といいます。
少々の欲得、欲望には突き動かされない魂のことです。
苦しみや悲しみに翻弄されず、愛欲に溺れず、地位、名誉、富、権力などに引き摺られず、怒りや憎しみに呑み込まれない魂ということです。
そうした魂はすべてのものから自由であり、少しも自由度を失うことはありません。
魂が自由であるということは、自分の心を失わず、自分を見失わないということです。
魂が自由であれば、愛の心も、信頼の心も必然的についてきます。
そして、ありのままの自分が見えてきます。
自分の本当の真の姿を認識するということです。
愛の破局、信頼の破局という事象が表すものは、魂の破局にほかなりません。
一度、世間から信を失った者は、魂の破局を迎えてしまったということです。
魂の自由に対峙するのが魂の破局です。
魂の破局には、掟があります。
人生、運命が暗転するという代償です。
気がつかないうちに、運命が限りなく下降していきます。
孤独の中でどん底に堕ちていくということです。
決して思い描いたような人生にはなりません。
紆余曲折、波乱万丈の荊の道が待ち受けています。
このような人が再起するには、聖アウグスチヌスのように反芻自戒して、内省する必要があります。
ごろつきのように放縦を極めて悪に染まっていたアウグスチヌスは、ある日を境に、頭上から雷光に貫かれたように、はっと我に返りました。
キリスト教的に云うと、深く悔い改めたということです。
魂の破壊は、深い、深い内省と悔い改めによって調和へと向かいます。
何事にも遅すぎるということはありません。




# by toukokira-kira | 2019-05-20 16:29 | Trackback | Comments(0)

渡邊崋山の母

私は、崋山の母の話が好きなので、こうして度々紹介しています。
渡辺崋山は寛政5年(1793)9月16日、江戸麹町の田原藩(現在、愛知県渥美郡田原町)上屋敷に長子として生まれた。
父定通は家老とはいうものの、田原藩は一万二千石の小藩であり、しかも病身。その上、七人の幼い弟と老祖母を抱え、母の手ひとつで貧窮極まる一家を支えていた。
崋山は母を助けながら、苦労して儒学、画、漢学などの勉学に励む。
11人の妹弟を食べさせるために、幼くして、崋山は商人の家に丁稚奉公に出ました。
10歳の崋山は、一生懸命に奉公に励みましたが、慣れぬ仕事ゆえ、いじめられて辛い苦しい毎日でした。
丁稚奉公での「いじめ」といのは、今の「イジメ」とは比較にならないほどの過酷なものでした。
いじめられて、いじめられて、叩かれて、蹴飛ばされて、踏みつけられての丁稚奉公でした。
辛抱に辛抱を重ね、忍耐に忍耐を重ねての毎日でした。
冬は、素手、素足で雑巾掛けをするので、アカギレになり、荷物を縛る縄目がアカギレの手指に食い込んで我慢ができませんでした。
アカギレの割れ目がパックリと裂けて痛むので、アカギレの割れ目に真っ赤に焼けた囲炉裏の火鉢を押し付けて、治そうとしました。
ジュジューと皮膚が焼け焦げる臭いがしたそうです。

丁稚奉公は、艱難辛苦を極め、ある日、崋山は堪えられなくなって、奉公先を逃げ出して、冬の雪道を、冬着も着ないで、素足の草履のまま、山を幾つも越えて、何日間も歩き続けて、やっとの思いで、夜道を母のいる実家に帰ってきました。

しかしあろことか、崋山の母は、鬼のような形相をして、玄関先で崋山をしかりつけ、「お前の帰ってくる家はない」「さあ、さっさと奉公先へ帰れ」と冷たく、追い払うのでした。
取りつく暇もありません。
崋山は、仕方なく、冬の寒空の中、夜道を引き返していきました。
身も心も凍りつくばかりでした。
崋山の魂は猛吹雪に呑み込まれて、彷徨うばかりでした。
崋山の母は、その崋山の後姿を見つめながら、止めどもなく流れ落ちる涙を流しながら、「崋山や、堪忍しておくれ、お前のためなのだから」と目を真っ赤に腫らして、崋山の姿が見えなくなるまで、ずっと泣き続けました。
これが本当の母の愛情というものでした。
甘えを一切許さない母の愛は、この時代、生き抜いていくためのものでした。
この一件以来、崋山は、どんなに辛く苦しくても、弱音を吐くこともなく、辛抱、忍耐で乗り切り、家老職まで登りつめました。

そして後年、蛮社の獄の後、自刃するまでに、数多くの優れた画、漢詩、和歌、俳諧、書物を残しています。
 また崋山は、高野長英、小関三英、江川坦庵らの蘭学者と交流しつつ蘭学を学び、当時の日本人で最も外国の事情に明るい人物の一人でなりました。
その外国についての多くの情報を背景に国際情勢を論じ、鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていると攘夷の非をとなえ、憂国を訴えた人物でした。
そして何よりも母が立派でした。
中国には有名な孟母三遷の喩えがありますが、崋山の母はそれにも負けない立派な母親でした。




# by toukokira-kira | 2019-05-19 23:39 | Trackback | Comments(0)

腰痛の原因とは

腰痛の原因は、筋肉異常にあります。
腰痛の原因として、骨格の歪み、ズレ、中枢神経を指摘する医学は間違いです。
骨も軟骨も痛みとは関係ありません。
これは米国の疼痛医学会の報告書によるものです。
ヘルニアの重篤な異常がMRIで見つかりますが、全くの無症状の患者が多く存在しています。
逆に、痛みで動けないが、検査では正常という人も実に多いのです。
腰痛の大部分の真の原因は、筋肉の緊張や障害だということです。
ここを間違うと、もう治る世界には入っていけません。
診断と治療の焦点を筋肉におくと治っていきます。
筋肉異常には、①緊張②筋力低下、硬直障害③れん縮④トリガーポイント(圧痛点)の4つの原因があります。
なお、れん縮とは、運動制限や不随意収縮のことを言います。
こうした筋肉異常を正常化させれば、腰痛も、膝痛も、肩こりも解決します。
ただし、筋肉異状の原因が、腎臓や肝臓、大腸など五臓六腑から起因するものや、ストレスなどの心因的なものが原因であることも多いので、整体法はもとより、内臓調整法、脊髄神経調整法、ストレス調和法などの高度な技術が必要になります。
トータル的な治療法である五心朝天法の太極療法がこれに相当します。

# by toukokira-kira | 2019-05-19 22:00 | Trackback | Comments(0)

臍下丹田

臍下三寸を丹田といいます。
腎臓の動気といわれるものはここにあります。
五臓六腑を束ねる神気の中心が丹田です。
臍下腎臓の動気は、人の生命です。
人の魂は、鳩尾にありますが、生命の王室は、丹田にあるのです。
全身に走る経絡十二経の根本、大本が丹田です。
この臍下丹田に気が集中できず、力が入ってないと、いざという時の力が発揮できません。
丹田には、生命の根本が集中しているのです。
気を扱う術を使う者は、皆、臍下丹田に心気を集め、呼吸を静かにして、胸中の気を吐き出し、丹田に気を集中させています。
人は、重大な局面に臨むとき、一生一大事のとき、勝負の時、命懸けで事に臨むとき、真気を臍下に集中させるとよいのです。
武士の戦いや、真剣勝負のときばかりではなく、大事な時には、臍下にぐっと力を入れます。
陰陽師の術を使うときにも、臍下丹田は重要です。
臍下丹田に波動を集中させると、身体の重心球が整って、身体の重心が中心で整い、ぐらつくことはありません。
丹田に気を集中させると、上体から重力が抜けて軽くなります。
寝ている人を起き上がらせるのは、重たくて一苦労ですが 、患者のお臍に指先を当てて、もう片方の手で 起こすと、上体の重力が抜けて簡単に起こすことができます。
そのようにすれば誰でも指先一本で軽々と患者の上体を起こすことができます。
これは古流神道の秘奥義です。是非試してみてください。





# by toukokira-kira | 2019-05-18 20:05 | Trackback | Comments(0)

心を動かす

古来日本では、本物の男がイザ勝負という一世一代の大仕事に臨むときは、陰腹を切って、相手のところに向かい、相対して交渉事に臨みました。
陰腹を切るとは、命を懸けて交渉事に当るという決意を顕わすために、行うものです。
腹を小刀で少しばかり切り、血の滲む腹にさらしを巻いて交渉事に対峙するのです。
これは背水の陣を敷いた魂と魂との交渉となりますからブレない心が必要です。
腹を軽く切って、血のにじむ傷口をさらしで押さえて、交渉に臨むのですから、決死の覚悟ということです。
大抵は、相手のその必死の気迫波動が伝わり、その覚悟に免じて、相手は了解し、交渉事は成功となるのです。
自分を捨て去り、命を懸けて、事に当ることほど、相手の心が動くことはありません。
望まないことであっても、相手の心が動いたために了解するのです。
古来より、武士道精神で貫かれた人物は、陰腹を切って、一大事に臨みました。
これは、現代にも十分に通じるものです。
営業や商談、交渉事など、ここ一番の大勝負のときは、実際に古武士のように陰腹を切る必要はありませんが、イメージでありありと、陰腹を切ってから、交渉事に臨むと良いのです。
その決死の覚悟の波動は、必ず相手に伝わりますので、相手が武士のような魂の持ち主ならば、交渉事、商談はその覚悟に免じて、九分九厘成功します。
命を懸けて、必死の覚悟で臨む者ほど、高貴で気高いものはないからです。
命懸けの必死の覚悟が相手の心をゆすぶって動かすのです。
何事も事の成否というのは、相手の心を動かすことができるかどうかにかかっているということです。
ですから、人の心を動かすことの出来ない人というのは、成功できない人です。
自分が可愛くて、可愛くて仕方のない人というのは、人の心を動かすことのできない人です。自分が、自分がという意識が強いと、人の心は動きません。
また、陰腹は過激すぎてちょっと、という人は、有り難うと唱えてから、交渉事に臨んでもいいんですよ。
心からの「ありがとう」は、物事を成就へと導く波動だからです
# by toukokira-kira | 2019-05-18 11:11 | Trackback | Comments(0)

戦国武将「山中鹿之助」

尼子再興のために立ち上がった悲運の戦国武将、山中鹿之介は、本当の勇気をもった武士でした。
勇気とは、正義のために力を振り絞ることです。
雲助やごろつきなどの血気にはやった蛮勇とは根本的に違います。
正義のために発揮する力が「勇気」です。
「願わくば、天よ吾に七難八苦を与えたまえ」と云って事に臨んだ武将です。
三日月にわが運命を委ね、どんな苦難、試練にも耐えることを誓ったのです。
辛いこと、苦しいことが、もっと、もっとわが身に降りかかってほしい。
私の力を試すために、天の試練を懇願しました。
鹿之助は、つねに背水の陣で事に臨んでいたのです。
そういう意味で万丈の気迫と気骨を示した偉人であり武将です。
「死中活あり」とは、山中鹿之助に贈る最上最善の言葉です。
どんな困難や苦しみにも辛抱して、忍耐強く立ち向かうのが本当の武士道の教えです。
忍耐に忍耐を重ね、辛抱に辛抱を重ねて、忠義という武士道を貫きました。
このことが云いたくて、ずっと武士道について綴ってきました。
「忍」の一字が武士道精神です。
「忍」の美学が武士道です。
真の勇者は、「忍」の人物ということです。
何事にも耐え忍び、最大限の努力を続け、時節の到来を待つということです。
すぐに激高して過激な行動に出るのは武士でも何でもありません。
そんなものは取るに足らない軽率の極みです。
武士道精神とは、自分に負けないで、挫けないで、諦めないで、どこまでも耐え忍ぶということです。
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、大義のために懸命に努力を続けることです。
耐え忍ぶということは、逆境に負けないで、どこまでも命懸けで努力奮闘するということです。
そうはいっても、おのれのため、自分のためでは、命懸けで努力できません。
人間というのは、人の為、世の為という大義がなければ到底命懸けにはなれません。
ですから、そういう意味で武士道は、日本人の心の原点です。
克己心は、不動心ともいい、苦難に立ち向かい、最善を尽くし、乗り越える心のことです。
古流神道の目指すべき最上の心が不動心です。
天が祝福する心が、克己心であり、不動心ということです。
武士道精神には、神が祝福する心、克己心があります。
天の神がその人に大きな任務を命じるときには、まず、その人に困難を与えて力を試します。
困難に真正面から立ち向かい、ベストを尽くし、最善を尽くし、逃げないで、どこまでも乗り越えようと、必死で苦難と闘うことのできる人間かどうかを試します。試練は、天が与える一つのチャンスなのです。
神は、乗り越えられないような試練を与えないのですょ。
乗り越えていったものには、神の祝福の花びらが舞い降りてきます。
苦難に立ち向かい、ベストを尽くす心を不動心といいます。
不動心は、克己心がないと発動しません。
そして、実は運命転換の秘訣というのはこの「不動心の獲得」にあります。
不動心を獲得した者は、運命も、人生も大きく変わります。
しかし、不動心、克己心は、常日頃から磨かないと,一朝一夕では身につきません。
昔の人は、鹿之介のような強い心をもっていました。
本当に名誉に値する行為とは、天の命ずる仕事を成し遂げることでした。
そのために死ぬことは恥ずかしくない。
しかし、天が与える苦しみから逃れるために、死ぬのなら、それは臆病者と蔑んだのです。
天が与えた大切な心です。神に通じる心です。死を恐れないことは、勇気のある行動である、しかし、生きることが死ぬことより恐ろしい場合は、あえて生きることが真の勇気である。神がそう云っておられます。
武士は死を覚悟した人間である。
一度死を覚悟した者には、怖いものは何もない。
真田の槍も為朝の矢も通らないのです。
聖書にも、私のために命を失う者は、私が救おう、と説かれています。
天のため、世のため、人のために、命を失ったものは、神が救い上げてくれるのですよ。
キリスト教であろうと、神道であろうと、そういう人間は神が救うのです。
ここで申し上げたいことは、人や世のために命をかけて誠を尽くして奉仕する人間が一番尊くて、神に近いということです。
そこには必ず天の加護があります。合掌

# by toukokira-kira | 2019-05-17 16:11 | Trackback | Comments(0)

生命の輝き

私は、一心不乱、無我夢中という言葉が好きです。
どんなことにでも、夢中になれるということは素敵なことです。
人生が楽しくて充実しているという人は、大抵が夢中になれる大好きなものがあるのです。
好きで楽しくなければ、何十年も夢中になり続けることは不可能です。
やはり、好きこそ物の上手なれです。
好きで楽しくなければ、よい仕事はできないと思います。
無我夢中というわけですから、自分を忘れて熱中するのです。
無我の境地は、聖人といえどもその境地に到達するのは大変難しいのですが、無我夢中の人は、この無我の境地に至っている人です。
自分を失うほど自分を忘れることが無我の境地なのですが、何かに夢中になっている人は、自分を忘れて熱中しているのですから、これはもう完全に無我の境地です。
無我夢中で何かに熱中している人というのは、ある意味ではキリストや釈迦、無我の境地に到達した聖人たちに等しいと云わざるをえません。
無我の境地は、あるがままの自分、心の真実、真如、真人を指し示すものですが、無我夢中の人は、まさに仏の悟りの世界に参入している人です。
無念無想の悟りの境地に近い状態といえます。
「夢中」という言葉は、そんな素敵な響きをもった言葉なのです。
無我夢中でやれば、無我の境地で事をなすことになりますから、すべてが成就へと向かいます。
上手くやろうとか、成功しようとか、名声を得ようとか、何かを意図しながら努力するのは、無我夢中ではありません。
何も考えずに、結果も考えず、損得勘定も考えず、地位、名声も考えず、ただそのことだけに集中し、夢中になることを無我夢中といいます。
やるだけやったら、結果など全く気にしない。人智を尽くして天命を待つ、という心境に近いものが無我夢中です。
夢中に努力して、結果を全く気にしない、というのが真の無我夢中です。
見返りを求めないで、完全燃焼しているピュアな姿がそこにあります。
生命の輝きとは、一生懸命に努力して、夢中になっている生命体のことをいいます。
無我夢中の経験をもっている人は、完全燃焼という生命の輝きを体験している人であり、そういう人は大抵、一流の人物に昇華しています。
我が流儀五心朝天法は、「無我夢中」の哲学を推奨しています。
# by toukokira-kira | 2019-05-16 21:18 | Trackback | Comments(0)

武士の妻

一般的に、男は理詰めで考えるが、女は直感的な働きで心が動きます。
人間世界は、理詰めで考えたほうが良い場合と、直感を大切にしたほうが良い場合があり、どちらが良いというものではありません。
武士道が理想とした女性像は、「婦人」ということです。
ん?「何っ?」ですね。
婦人の「婦」の字は、箒(ほおき)をもつ女性という意味です。
家庭的な、という意味です。
武家の娘は、薙刀などの武芸や、音楽、舞踊、和歌、文学などの教養を身につけ、武家社会で重要な役割を果たしてきました。
舞踊は、立ち居振る舞いを優雅にするもので、武家の子女必須のものでした。
茶道,華道にも造詣が深く、生活に潤いを与えていました。
誰かに見せるものでも、虚栄心を満足させるためのものではありません。
美しい言葉使い、美しい表情、美しい所作、美しい心遣い、を懸命に努力して磨きました。
ですから武家の娘は、皆そこはかとなく美しく見えて、慎み深いのです。
美人の条件というのは、顔や容姿端麗だけではありません。
美しい言葉使いや美しい所作、ふるまい、美しい表情、美しい心遣いが何よりも女性を美しく見せるのです。
否、美人でなくとも、美しい言葉使いや美しい心をもつ女性はそこはかとなく美しく見えるのです。
武家の子女は、家名と品位を守るために、身を粉にして働き、命を家名に捧げたのです。
武家の女性は、男子と同様に、名と名誉、家名を命よりも大切と教えられて育ちましたので、いざというときの覚悟が出来ているのです。
家名のためには、薙刀や懐剣を抜いて、戦う覚悟のある女性たちでもあるのです。
美しくて、しなやかで、はかなくて、強いのです。
辱しめを受けることや、恥をかくことは、命をかけてもあってはならないのです。
日本女性の原点がここにあります。
女性は、愛をもって家庭を守り、妻は夫のために、母は息子のために、娘は父のために、自分を犠牲にして尽くしました。
貝原益軒の女大学には、子としては親に従い、嫁としては夫に従い、老いては子に従え、とあります。
江戸時代の女性の修身の書「女大学」にそう書かれているので、当時の女性はそのように生きてきたものと思います。
昔の日本女性の人生は、従属的な奉仕と献身の一生だったのです。
今とは大違いですね。
つい昭和初期の時代までは、男尊女卑の考え方が色濃く残っていたのですよ。
結婚後は、表舞台には決して立たず、立つべきときは、夫とともに表舞台に立ち、目立つことが夫の仕事の妨げとなるときは、幕の後ろに姿を隠しました。
内助の功が、女性の生きる道でした。
「三歩下がって、夫の影を踏まず」というのが当時の妻の有り様でした。
本物の伝統世界では、今日でも、女性の役割は変わりません。
女性が表舞台に立つこともありません。
男性が主君と国のためにわが身を犠牲にすると同じように、女性も夫や家族、一族のためにわが身を犠牲にして家庭を温かく守りました。
日本の家族の姿は、互いに支え合い、助け合い、温かく、美しく、名画に勝るほどの美しいものでした。
女性は夫のために滅私奉公、夫は主君のために滅私奉公、主君は天のために滅私奉公、これが忠義というものでした。
滅私奉公とは、自分の欲望、利益を捨てて、誠を尽くすことです。
己を捨てた大我の心のことです。
自己犠牲の奉仕の教えは、武士道によるものですが、これは永遠の真理となるものです。
他者や世のために自己犠牲できる人は、只者ではありません。
自分を犠牲にして社会に奉仕することは、神が一番喜ぶ行為です。
現代では、女性の地位と役割は、大変大きく変化してきていますが、女性の人格、品位、気高さは、当時と今とでは、比べようもありません。
武家の女性はみな、命懸けで生きているがゆえに、美しく、高嶺の花なのです。
貞操観念のないふしだらな女性など武家には一人もおりません。




# by toukokira-kira | 2019-05-15 22:24 | Trackback | Comments(0)

第三の目の覚醒

私たちの額の中央部は、印堂といって、霊的な働きを司るチャクラです。
大いなる宇宙意識と、私達の小宇宙の意識とが直結しているところです。
霊的な働きをするがゆえにこの印堂は、第三の眼とも言われています。
印堂は、生命中枢である脳器官の脳下垂体、松果体の反射点です。
とくに松果体が発達してくると、霊的な力が発達してきます。
松果体は、メラトニンを分泌するなど睡眠に関係する脳器官ですが、霊的なチャクラでもあります。
私は、何かをイメージするときには、この額の中央部の第三の眼でイメージするようにしています。
光の珠をイメージで放射するときにも、この第三の眼から光の珠をイメージで放出します。
頭の中でイメージするのではなく、宇宙と直結した第三の眼でイメージすることが大切です。
第三の眼から光の玉を前方の空間に押し出したり、そこから後頭部まで引っ込めたりして、第三の眼を鍛えると、第三の眼が活性化してきます。
# by toukokira-kira | 2019-05-15 17:26 | Trackback | Comments(0)

海峡をわたる蝶々

あの小さな蝶が、海を渡って孤島に大挙して飛来して来るという。
大分県の姫島は、アサギマダラという蝶の群舞いで知られています。
小さな蝶がひらひらと飛んで、2000kmもの大海原を渡ってくると言います。
姫島のアサギマダラは、どこから来て、どこに向かっていくかは判っていませんが、群舞で海原を渡るといのですから、すごいパワー、生命力です。
ひらひらと風に揺られて飛ぶ小さな蝶のどこにそんなパワーが秘められているのでしょう。不思議で驚くばかりです。
遠い昔、青函連絡船に乗っている時に、そのデッキの横をヒラヒラと飛んでいる一羽の蝶を思い出しました。
海峡の海原を一羽の蝶々が本州に向かって確かに飛んでいました。

# by toukokira-kira | 2019-05-12 09:52 | Trackback | Comments(0)

勇気とは

これまでも「勇」とは忍耐であると言ってきました。
忍耐、辛抱のない人には、真の「勇」は備わっておりません。
勇気は、いざという時の大胆さとともに、忍耐の精神を示しているということです。
勇気を振り絞るには、いざという時まで忍耐と寛容の精神を保持するということです。
そして勇には、「大義の勇」と、「匹夫の勇」があるということです。
勇気は、正義のために使わなければ、蛮勇となり、何の値打ちもありません。
ですから、武士は是非の心、善悪を見極める心を大切にしました。
やたら刀を振り回せばよいというものではありませんでした。
孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきなり」と説き、正義を行わないのは、勇気がないからだと云っています。
つまり、勇気とは、正しいことを実行することです。
値打ちのないことに命を賭けるのは勇気ではありません。
武士道の教える勇気とは、正義のために、正しいことに命をかけるということです。
水戸黄門は、「恐れるべきことと、畏れるべきでないことを区別するのが勇気である」と云っています。実に含蓄の深い言葉です。
この水戸黄門の言葉を噛み締めて、反芻自戒し、沈思黙考すべきでしょう。
大義の勇とは、正義の勇気であり、匹夫の勇とは、浅はかな血気にはやる勇気のことです。匹夫の勇ごときは、雲助、ごろつきの所業に過ぎません。
正しい事を行える勇気ということが、人間の品格を決めるものです
# by toukokira-kira | 2019-05-11 10:52 | Trackback | Comments(0)

★★ありのままの自分

自分の中に、自分の人生と運命を動かす別の存在があります。
自分の心と魂を動かす別の存在が自分の奥深くにあります。
自分の思考と感情を勝手に動かす別の存在があるということです。
???、そうです別の存在です。
私達は、自分の意志で考えているようで、実はそうではないのです。
その存在は、どんなに自分が努力しても絶対に逆らえないものです。
別の存在とは一体何なのでしょか。
それを私達古流神道の者は、潜在意識とか、因縁とか、カルマと読んでいます。
潜在意識には、因縁記憶やカルマの記憶がくっきりと刻まれています。
魂の記憶とは、いうなれば潜在意識のことであり、因縁の記憶であり、カルマの記憶のことです。
魂の奥底に直霊という存在があり、そこにそうした魂の悠久の記憶が宿っています。
因縁が邪魔するから、運命も人生も、自分の思うようにはいきません。
自分の意志とは無関係に、因縁律にそって人生、運命は思わぬ方向へと動いていきます。
因縁やカルマ、すなわち潜在意識が邪魔するのです。
こうした因縁を乗り越える方法はないわけではありません
それは、ありのままの自分に還ることです。
ありのままの自分を知ることです。
「自分探しの旅」と言いますが、自分を知ることです。
己が一体何者なのかといことを知ることです。
自分を知るということは、自分の行い、言動を振り返って、見つめ直すということです。
心から反省、内省するということです。
そして、自己中心の身勝手な心を捨てて、世の為,他者の為に役立とうとする心をもつようになったときに、ありのままの自分と遭遇できます。
これを「自利利他」とも言います。空海が修行の果てにそう活断しました。
自分が、自分が、己が,己がという自己中心の心で生きている人というのは、ありのままに生きることも、ありのままの自分に出会うこともありません。
富や地位、名誉、権力を掴んでウハウハしている人には遠い遠い存在となります。
本当の自分と出会うことはありません。
自分を知るためには、深い内省とともに、一旦、自分を捨て去る必要があります。



# by toukokira-kira | 2019-05-10 16:52 | Trackback | Comments(0)

禁煙のすすめ

人間が普通に食生活をして生きていると体内に栄養とともに、毒素が生じますので、腎臓や肝臓などの内蔵が600種以上のその毒素を消化、代謝して事なきを得ています。
加えて、喫煙をすると、体内には250種類以上の有害毒素が侵入してきます。
そのうちガンの原因となる毒素は70種類以上が特定されています。
ニコチンや、中毒死の原因となる一酸化炭素、カドミウム、ホルムアルデヒドなど多数です。
公害問題で有名なpm2・5などの化学物質も多量に含まれています。
ですから、タバコを喫煙する人がマスクをしても意味がありません。
タバコの煙を視覚化する装置でみると、喫煙者がpm2・5を大量に吐き出していることが判ります。
もう少し言うと、喫煙時に吐き出される有害物質も250種類以上ということです。
こうしたガス状態の成分は、喫煙後1時間たってもなお吐き続けているのですよ。
ですから身近にいる人の受動喫煙の被害というものも甚大だと知るべきです。
タバコによる疾病リスクは非常に高く、よいことは一つもありません。
肺がんなどのあらゆるガンへのリスク、脳、心臓、血管への甚大な被害が明らかになっています。10倍のリスクを背負うことになります。
肺がん患者の筆舌を尽くす苦しさを知らないからタバコを吸うのです。
これほどの被害甚大な喫煙と判っていても、ニコチンによる依存症により、タバコを止められないといのが実情です。
かく言う私も、実を言うと、18歳から40年間、1日3箱のヘビースモーカーでした。
死んでもタバコは止めないと思っていましたが、喘息がひどくなったので止めました。
いつから始めても、禁煙は遅くはありません。
禁煙すると、心筋梗塞、脳梗塞のリスク軽減が早期にあらわれます。
肺がんリスクは5年の禁煙で非喫煙者の半分、15年で同等になります。周りの人が受ける受動喫煙の深刻な害も解消されます。
タバコを吸うと、口の中が乾燥して唾液の分泌が減少します。
口の中には、善玉、悪玉合わせて600種類以上の細菌が常駐しています。
口の中が乾燥すると、悪玉が跋扈して悪さをします。
唾液というのは、最前線の強力な免疫軍ですが、唾液の分泌が抑えられると、さまざまな病原菌が身体に侵入します。


# by toukokira-kira | 2019-05-09 23:55 | Trackback | Comments(0)

新天皇

正義心を表す「義」に忠という字が加わると「忠義」となります。
忠の字が加わると、重くなります。
義務、ロイヤルティが生じるからです。
「忠」という言葉は、支配者には実に都合のよい言葉であり、論理です。
主君に忠誠を誓う。これは「武士道精神」の根幹です。
西洋の「騎士道」のロイヤルティも忠誠心が根幹です。
目上の者への忠誠心は、封建時代の道徳であり、今も色濃く残っています。
名誉と結びついた武士道では、主君への忠誠心は、命よりも大切な道徳でした。
主君に対して抱く気高い忠義の心は、日本人独自のものである。
忠臣蔵の討ち入りで有名な赤穂浪士のように、日本では世界に比類しないほど、忠義の心が強いのです。驚くほどなのです。
父母への孝行よりも、主君への忠義が重いのです。
親に孝、君に忠と言いますが、主君への忠義がはるかに重いのです。
忠ならんと欲すれば、孝ならず。孝ならんと欲すれば、忠ならず。
多くの侍が、忠義と親孝行、義理と愛情の板ばさみで苦しみました。
しかし、武士道では、忠義がはるかに重いのです。
武士の子は、主君のためにすべてを犠牲にする覚悟が、幼少より躾られているのです。教育の力とは恐ろしいものです。
いまでも日本人の忠誠の心は、君が代の中に生きています。
徳川幕藩体制が300年間続いたのも、この忠義、忠誠心が根幹となる武士道精神によるところが大変大きいのです。
同様に、天照大神の子孫である天皇へのロイヤルティは、潜在意識の中で永遠に受け継がれています。
令和の時代を迎えて、皇居の長和殿東庭には13万人もの人々が126代目の新天皇をひと目見ようと日本国の小旗を持って集まりました。
やはり、神武以来、2700年という世界最古の歴史をもつ日本国の象徴天皇です。英国の王室でさえ千年の王朝、王国です。
日本の皇室の連綿とした歴史は、他の追随を許しません。
圧倒的な古い歴史を有しているといことです。
日本の学校教育では、なぜこのことを教えないのでしょうか。不思議です。
さて、即位の礼では、古代から代々天皇に伝わる三種神器の継承が行われました。
鏡(ヤタノカガミ)は伊勢神宮の御神体、草薙剣(クサナギノツルギ)は熱田神宮から、勾玉(ヤサカニノマガタマ)は皇居にあり、それらが継承されたということです。
忠義の心は、良心の声に取って代わられる時代を迎えていますが、神への忠誠心だけは忘れてはならないのです。
# by toukokira-kira | 2019-05-06 17:45 | Trackback | Comments(0)

武将「熊谷直実」

高野山には、源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)と平氏の若武者、平敦盛の墓が並んで建っているとのことです。
源平合戦の須磨の浦の戦いの物語の二人であるが、知らぬ人が多いと思います。
仁と義を兼ね備えた勇者のエピソードですので、お読みください。
平家物語の一節に源氏の武将熊谷直実の有名な一文があります。
激戦の一つに数えられる須磨の浦の戦いの場面です。
熊谷直実は、一人の若武者を一騎打ちで組み伏せ、相手の素性を尋ねました。
一騎打ちの礼儀として、相手の身分が高いか、力量が同じ程度の者でなけえば、血を流さないというルールがあったからです。
弱い者を見つけて殺すというのは武士のルール違反なのです。
自分よりも強いか同等のものでなければ血を流してはいけないのです。
ですから武士の一騎打ちは命懸けの戦いでした。
自分よりも強い相手に向かっていくわけですから、死を覚悟して闘いに臨みます。
さて、話しを元に戻します。直実は重ねて相手の素性を尋ねました。
しかし、相手は名乗るのを断る。
そこで若武者の兜を剥ぎ取ると、そこに現れたのはまだ髭も生えていない美しい顔の若者だった。
直実は驚いて、手を緩めて助け起こし、おお,何と若い武者ではないか。
今のうちに逃げたまえと、逃がそうとしました。
というのも、直実はちょうどこの日、自分の息子が初陣だった。
直実はこの若武者に息子の姿を重ね、殺すのに忍びなかったのだ。
けれど若者は逃げるのを断り、二人の名誉のためこの場で自分の首を取れというのです。
やがて源氏の軍勢が地響きを立てながら押し寄せてくる。
直実はそれを見て、今となっては、もう逃がしてさしあげることはできますまい。名もない人の手で殺されるより、私の手で殺し,死後の弔いをしましょう、と云って、若武者の首を取りました。
戦は勝利に終わりましたが、直実は名誉も領地も捨てて出家し、僧侶となってこの若者の供養のため、諸国を行脚して過ごした人物です。
勇ましい侍の優しさ、哀れみ、慈悲の心が伝わってきます。
武士道とは、残忍な戦いの中にも、闘いのルールがあり、仁と義の美徳があるということなのでしょう。
仁と義を失った武士道は、もはや武士道とはいえないのです。
仁と義とは、言い換えると四端の心の実践ということです。
ですから、我が流儀ではこの四端の心の実践ということをとても大切にしています。
# by toukokira-kira | 2019-05-06 09:00 | Trackback | Comments(0)

令和という時代

世界にはシリア難民のような難民生活を送る人々が6500万人も存在するそうです。
そのうちの半数以上が子供たちということです。
命の危険を感じて、国を脱出して、難民となるのですが、その多くはシリアを逃れて、アドリア海を渡ってヨーロッパに向かいます。
難民ブローカーに何十万円も支払ってボロボロの難民船に乗せてもらい、定員の何十倍もの人を乗せて向かうのですが、沈没して命を落とす人も少なくありません。
アドリア海では年間で4000人の難民が沈没船の犠牲になっています。
世界には、貧困と内戦と、感染症に苦しむ9億人の人々がおり、飢餓に直面して餓死する人々も毎年1億人以上存在しています。
私達のような豊かな恵まれた国に住む人々は推定16億人です。
発展途上国と呼ばれるいわゆる後進国の人口は全世界で59億人です。
そうした中で、世界では、緊急の課題として、経済格差の問題と、難民受け入れの問題が大きくクローズアップされています。
日本で受け入れている認定難民数は2万人ということです。
毎年、100万人の難民を受け入れているヨーロッパからみると、少ないようです。
難民キャンプの幼い子供たちを見るたびに、75億人の地球上の人類がみな幸せ暮らせるようになる日が一日でも早く訪れることを念願するばかりです。
地球上の食料や資源、エネルギーは、豊かに暮らすには人口30億人分しかないと云われています。
20年後には、地球上の人口は100億人に達すると推計されています。
そうなると、地球が3つ、4つないと食料も資源も、エネルギーも間に合いません。
200ある国と地域の生活レベルの向上要求の高まりとともに、食料、エネルギーの分捕り合戦がさらに激しくなることでしょう。
現在、世界中の3分の一の食料が食べ残しとして捨てられています。
年間にすると、世界では13億トンの食糧が捨てられています。
日本国内でも700万トンの食糧が食べ残しなどでムダに捨てられています。
700万トンの食糧があれば、1億人の飢餓難民を救えるのです。
これからの令和の時代は、世界の経済、生活文化のシステムも大きく変更を迫られることでしょう。
70年~80年単位で大きく変貌してきた世界システムが、今、また大きく変わろうとしています。
餓死寸前の貧困の中に苦しんでいる人々が10億人も存在する一方で、わずか数人の大富豪、超富裕層の資産が、地球の人口の半分の36億人の総資産よりも大きいという現実があります。
貧富の格差が想像を超えて極まっています。
パナマ文書によると、税金逃れのタックスヘイブンによる所得隠しの総額は900兆円を超えるそうです。
世界の長者番付ベスト10の人々の総資産は何と50兆円を裕に超えるそうです。
その中には、数百億円もする宮殿のような豪邸を建てる大富豪もいます。
世界を見渡すと、このような極端な貧富の経済格差が存在しています。
生れ落ちてから生きるのもままならないような劣悪悲惨な飢餓難民の子の運命は、風前の灯です。
一方では、この世をこれでもかと謳歌する超富裕層が存在します。
環境と才能と努力の差とばかりは言えない歴然とした差が人間世界にはあります。
これは弱肉強食型の人間社会の究極の姿といえるでしょう。
そんな状況の中で、トランプに象徴されるように世界は、自由競争の原理から内向きの保護主義へと向かっているような気がします。
自分さえよければという自国主義がトランプ政権の根幹思想です。
ヨーロッパでも、世界でも、こうした自国主義の動きが目立つようになってきました。
資源のない日本は、自由競争の原理を謳歌して今日の発展の礎を築いてきましたが、これからの保護主義傾向の時代の中でどうなるのでしょうか。
労働者不足を補うために130万人の外国労働者が日本で働いています。
これからはどんどん続けることでしょ。
貧困の1人暮らしの高齢者が増加し、認知症の高齢者が急増しています。
世界一の長寿国家であると同時に、超高齢社会の問題が数限りなく山積しています。
令和の時代というのは、日本の国の形、社会の形が大きく変容していく時代だと思います。




# by toukokira-kira | 2019-05-05 17:33 | Trackback | Comments(0)

人間

人間が生きるための4つのことがあります。
これが判っていないと、よい人生を歩むことができません。
①役に立つこと。
②必要とされること。
③愛されること。
④認められること。
どうですか。あなたはこの4つが満たされていますか。
誰からも愛されず、誰からも必要とされず、誰からも認められず、誰の役にも立たずに生きている人の何と多いことでしょう。
孤立した孤独な人生では人間は人間らしく生きていけません。
ですから、この4つは、人間が人間たるための条件といえるでしょう。

# by toukokira-kira | 2019-05-03 18:45 | Trackback | Comments(0)

仁とは、義とは

武士道の仁とは愛心のことであり、愛心とは人の苦しみを感じる心のことです。
言い換えると、他者を思いやる心、「惻隠の情」のことです。
仏教ではこれを慈悲心ともいいます。
仁は、仁義ともいいますが、仁と義は、最高の徳目です。
仁は、愛であり、寛容であり、情愛であり、哀れみの心であり、最高の徳として認められているものです。
義とは、正義心のことであり、「是非の心」「辞譲の心」「羞悪の心」を含んでいます。邪な心を恥じる心のことです。
仁と義は人間の魂のもつすべての性質の中で、最も気高いものです。
仁と義は、人間の最高の品格を表すもので、仁と義が備わっている人は、絶対的に敬愛のできる人です。
それゆえに、仁と義をもって王者の徳と言われる所以です。
ヤクザ映画の「仁義なき戦い」の仁義とは違います。
孔子は、君子はまず徳を身につけるがよい。
徳があれば人は集まり、人が集まれば領地ができる。
領地ができれば財産ができる。
徳を積むことが基本である。と説いています。
徳とは、仁であり、義であります。
それに続くのが礼であり、智であり、信です。
仁は母親のように優しい徳目である。
侍たちは殺人のプロであるが、仁によって、人の心、人の道をもつように教えられ、義によって、正義や公正さをもつことなしに、むやみに慈悲に溺れることを戒められていました。
義と仁の狭間で悩み苦しんだ存在が侍です。
伊達政宗は、義に過ぎれば硬くなる。仁に過ぎれば弱くなる。と云っています。「最も勇気のある者は、最も心優しい者である。そして勇敢な者には愛がある。」これは武士道の真髄を表した言葉ですが、現代にも通じる真理です。
愛と勇気はイコールな存在なのです。
愛のない者に真の勇気はありません。蛮勇と勇気とでは本質が全く違います。
侍の慈悲は、武士の情けと呼ばれたが、その場の感情に動かされたものではなく、その行いが正義なのかどうかを考慮した上での慈悲でした。
正義に対する情け、これを慈悲というのです。
なんでもかんでも情けをかければよいというものではありません。
武士は、自分の武力や力に誇りを持つと同時に、仁や義を説く孟子に敬服し、厳しい人間愛を知るものでもありました。
仁と義は、いわば「四端の心」と言い換えることができます。
四端の心とは、「惻隠の情」「羞悪の心」「是非の心」「辞譲の心」の4つを言います。




# by toukokira-kira | 2019-05-03 17:57 | Trackback | Comments(0)

人の道とは

義は、人の道である。
人情よりも義理が重たい人間世界。
「義」は誠実と正義心を示し、「仁」とともに日本の心の土台となる教えです。
日本の規範の中で、最も厳格な道徳が「義」です。
戦いのプロである侍は、卑劣な行動、不正な振る舞いを嫌悪し、恥としました。
正々堂々というのが武士道精神です。
恥ずべき卑怯な振舞い、姑息な行動を忌み嫌いました。
義とは、自分がどのような行動をとればよいか、道理に従ってためらわずに決断する力です。
これを「是非の心」とか、「羞悪の心」と言います。
死なねばならぬときは潔く死ぬし、戦わなければならないときには、戦うということです。
武士道とは、「死中活あり」の実践です。
これが義というものです。
正義心をもって生死を越えた心ということです。
義とは、正義のことですが、一面では、決断する力を示します。
武士が大事にしなければならないのは、節義であり、誠実、正義であり、これらは人の土台となる教えです。
いくら才能や財産、学問があっても、土台がないと、無に等しいということです。
人間の土台は、誠実、正義であるということです。
まず人間を観る時には、正義心である義を観るということです。
孟子は、仁は人の良心、義は人の道なり、と説かれています。
義は人の道であり、忠孝の道であり、尊敬の象徴です。
ですから47人の赤穂浪士の受けた義士という呼び名は、どんなものにも勝る名誉でした。
金がすべてという金至上主義の時代ではありますが、だからこそ今一度、義という言葉の意味を噛み締めてもらえればと思います。
現代に失われた大切な言葉です。





# by toukokira-kira | 2019-05-01 23:37 | Trackback | Comments(0)

認知症

予備軍も含めると1000万人とも言われる認知症については、何度も特集を組んで記事を書き綴ってきました。
80歳で4割の人が認知症になるという厳しい現実を私達は切実に受け止めなければなりません。
認知症の原因である脳神経細胞の死滅は、発症の20年前以前からすでに始まっています。
発症の原因は、昨日、今日というような短期的な問題ではありません。
だから50代、60代の人は十分に注意しなければなりません。
とくに、睡眠不足の人や、不眠症で苦しんでいる人は要注意です。
不眠とともに、もう一つ大事なことは、ウオーキングなどの有酸素運動です。
腰や膝が痛んで歩けない人というのは、格段に早く認知症に突き進んでいきます。
歩く歩幅が縮むほどに、比例して健康寿命が縮むという現実あるということです。
睡眠と有酸素運動が認知症回避のキーワードです。
それは、認知症の真犯人であるアミロイドベターとタウ蛋白質の蓄積をいかにして防ぎ、除去できるかということが命題だからです。
命題の一つは、ウオーキングなどの有酸素運動をすると、脳の栄養素が増えて蓄積を防ぐことが証明されています。
もう一つは、よい睡眠ができると、原因物質を除去し、脳の汚れをきれいに落としてくれるということでしたね。
睡眠と有酸素運動が予防のキーワードですが、友達や家族と好きなことを楽しむことが最高の脳トレーニングのようです。
今回は認知症患者の8割を占めるというアルツハイマー病について書きます。
日本人は、80歳以上になると、4割が認知症になるという現実があります。
神経細胞の死滅は発症の20~25年前からすでに始まっていると以前に書き記しました。
だから40代、50代の働き盛りの人たちが認知症発生の機序についてよく学んでおく必要があります。
前回もそういう視点からレポートをまとめました。
アルツハイマー病の真の発生原因は、「アミロイドβ」と「タウタンパク質」です。
こうした脳細胞を死滅させる原因物質が40代、50代から少しづつ蓄積し、脳細胞を萎縮させ、それが25年ぐらい経ると、脳全体を覆うほどになり、ついには認知症やアルツハイマー病が発症します。
そうした発症の機序についてもう少し詳細に探究したいと思います。

アルツハイマー病は、脳にアミロイドβーというたんぱく質が蓄積することで、脳の神経細胞が萎縮して、死滅し、記憶が失われ、認知症になる病気です。
認知症とは、脳の機能が低下して、日常生活や社会生活を営めない状態をいい、現在、アルツハイマー病を根本から治療する方法はありません。
治療方法がないにも関わらず、新しい血液検査で、アルツハイマーの予備軍であるかどうかが80%の確率で判定できるようになっています。
アミロイドβーを抑制する3種類のたんぱく質の血中量を調べることで、判るようになったそうです。
これまでは脳脊髄液を採取して調べる方法でしたので、難しい検査であり、費用も20万円も掛かりましたが、新しい血液検査では2~3万円程度だそうです。

認知症の原因物質であるアミロイドβーの蓄積は、20年~25年前に始まっていて、脳内に限度いっぱいに蓄積すると、発症するのです。
認知症の80%がアルツハイマー病であり、日本では65歳以上の7人に1人が発症し、認知症の患者数は460万人です。
認知症の患者数は、10年後には700万人、予備軍も入れると1000万人となり、4人に1人が認知症または予備軍となります。

アルツハイマ病が進むと、脳は萎縮して、健康な人の大脳の半分くらいの容量に萎縮してしまいます。
新しい記憶をつくる海馬も萎縮しますし、記憶や判断、計算、理解、学習,思考、言語の機能を司る大脳皮質が萎縮しますので、認知症になるわけです。

脳内で25年の歳月をかけて、巨大な塊となるのがアミロイドβーであり、脳の神経細胞やシナプスを萎縮させ、死滅させます。
アミロイドβーが蓄積した脳では、老人斑が生じ、神経細胞に変異が現われます。
ついでタウという蛋白質が生成され、神経細胞がやられて認知症を発症するのです。
アミロイドβーが異常な構造に変化したものが「タウ」蛋白質であり、元凶はこのタウ蛋白質です。

ごく最近、認知症患者には、共通してカビの一種である真菌が巣くっているという実態が解明されており、βーアミロイドとともに、研究が続けられています。

認知症の方は、年間、1万人以上が行方不明になって、行き倒れになっていると推計されており、一旦、家を出て徘徊すると、もう戻れません。記憶傷害で、わからなくなるのですよ。
まあ、認知症にならないためには、ストレスの多い生活を改め、楽しく、嬉しく、感謝して過ごす習慣を身につけることが大切です。
そして、脳の一番の栄養である知的好奇心をもち、ウォーキングなどの有酸素運動を継続し、質のよい睡眠を取ることです。
元凶であるタウ蛋白質の蓄積を防ぐためには、とくに大事なのは「運動」と「睡眠」です。
ウオーキングなどの有酸素運動をすれば、脳の栄養素が増えて、脳細胞が活性化しますし、脳の大敵であるストレスが軽減されていきます。
そして一番大事なのは良質な睡眠をとることです。
人間の脳は、十分に熟睡して良質な睡眠が取れると、寝ている間に、認知症の原因物質であるアミロイドβを分解消失させてしまいます。
ですから、熟年期に睡眠不足で睡眠薬を飲まないと眠れないという人は、アミロイドβが分解消失されずに、蓄積される一方の人ですから、高齢に成ると発症リスクが高くなります。
よい睡眠が脳の汚れをきれいに落としてくれているということを忘れないでください。
何度も繰り返しますが、認知症の原因物質であるアミロイドβーは、睡眠によって分解消滅されますので、不眠に悩む人や熟睡できない人などは、蓄積しやすいのですよ。
ですから、不眠を誘うストレスが大敵ということです。
そして壮年期から徐々に蓄積進行して、老年期に発症してくるのですよ。
認知症予防に大変よい食物は、納豆、カレー粉、アマニ油などです。
カレー粉のダーメリックにはクルクミンが含まれており、これがアミロイドを消滅してくれます。医学の臨床データーがそれを証明しています。
クルクミンには、記憶を強くする成分も入っているので、カレー粉を使った料理を沢山食べると、認知症予防になります。
カレー粉にはもう一つ重要な成分があり、カルダモンが多量に含まれています。
カルダモンは、脳の血管を拡張し、脳の血流を増加させ、脳を活性化させます。
アマニ油はアボカドと一緒に食べあわせrと、認知症の予防になります。
納豆にも認知症に効く新物質が含まれることが最近判ってきました。
ナットウキナーゼや納豆菌は旧知のとおりですが、とくに熱に強い納豆菌は善玉菌を増加させ、腸内環境を整えてくれます。
トマトのリコピンは、熱処理したトマトジュース、ケチャップに含有し、脳血管を拡張し、脳を活性化させてくれます。













# by toukokira-kira | 2019-04-29 23:54 | Trackback | Comments(0)

ヘルニアとは

今回のテーマは、日本人の8割以上の人が苦しんでいる腰痛やヘルニアについてです。
椎間板ヘルニアは腰の運動制限から生じます。
運動制限=ポンプ機構の破綻です。
腰の痛みを取って、曲げたり伸ばしたりすることが大切です。
運動によって、水分、栄養、老廃物の出入りが活発になり、活性化します。
膝関節でもどこでも動かさないと、悪化していきます。
ですから、軽いウオーキングやラジオ体操は大変有効です。
運動制限が続くと、ヘルニアが発生します。
腰筋、臀筋、下肢筋の痛みが続くことにより、脊柱の運動制限が起こり、椎間板のポンプ機構が破綻してヘルニアになるのです。
ヘルニアが先にありきではなく、腰痛が先にあって、ヘルニアとなるのです。
腰痛を放置すると、ヘルニアに移行する確率が高くなるということです。
ヘルニアというのは、運動制限、前後左右の重心の乱れ、運動のアンバランスのために生じるのです。
これがヘルニアが生じる機序です。
ヘルニアがあるから腰が痛むのではなく、腰が痛むからヘルニアになるのです。
左下肢痛の人は、左にヘルニアが生じ、右足に負荷がかかります。、
運動制限からヘルニアになるということをお忘れなく。
私と整形外科医の見立ては真逆であることを付記しておきます。
そして、ヘルニアがあっても恐れる必要はありません。
全身を調整してから、患部周辺の筋肉群を完全に弛めると、ヘルニアの症状は消滅します。
問題は「骨、軟骨」にあるのではなく、「筋肉群」にあるからです。
ヘルニアばかりではなく、脊椎狭窄であろと、変形性脊椎であろと、何であろうと、何も怖がることはありません。
問題は骨にあるのではなくう、筋肉にあるからです。
筋肉を正常化さえすれば、ほとんどの問題は解決するからです。











# by toukokira-kira | 2019-04-26 11:08 | Trackback | Comments(0)

真の学問とは

本来、教育とは、学問とは、真実の心、人間の真実の有り様を学ぶことです。
人間が人間たる所以を学び、人間としての由来を学ぶことが本当の意味での学問です。情報を詰め込むことが学問ではありません。
人間としての人格と魂を育てることが、真の学問です。
知識、情報を取得するのが学問だと思っている人が多いのでありますが、そうではありません。
そんなことは枝葉末節です。
人の道、人の真実の有り様を学ぶことが学問というものです。
ですから、学問においては、人格、品格の確立が第一であり、博学、博識というだけでは、誰にも尊敬されません。
品格とは、一体何でしょうか。単なる見た目の上品さと混同してはなりません。
品格とは、「是非の心」を備えているかどうかということです。
是非の心とは、正しいかそうでないかを見極める能力です。
正しい道を選び取って歩む者を、品格のある者といいます。
是非の心に伴うものが、羞悪の心、辞譲の心、惻隠の情の4つです。
これらを総称して四端の心と云います。
四端の心の獲得が学問の究極の目的だということです。
我が流儀の最高徳目も不動心とともに四端の心の獲得ということです。
孔子は、学んで思わざれば暗し、思いて学ばざれば危うし、と云いました。
教師が知性を教えるのではなく、人格を磨かせる、頭脳を鍛錬するのではなく、魂を鍛錬させる、こういう教師は本物の聖職の者です。
人格、魂を鍛え、磨くのが聖職者である教師というものです。
ですから、教師が聖職であった時代は、教師に対する尊敬の念は極めて大きかったのです。
数学とか化学とか、単なる知識を教えることが、本来の教職ではありません。
だから教師は、優れた人格と学識を備えた人でなければなりません。
教師とは、子供たちに行く道を照らしてくれる師というものです。
それゆえに父母は天地の如く、師は日月の如し、なのです。
父母は天や地のようにありがたく、師は日や月にように行く道を照らしてくれるありがたい存在ということです。
武士道では、金銭を受け取らない仕事が尊敬されるのであり、金銭に換算する仕事は、なじまない。
人間の精神、人格、魂に関わる仕事は、計り知れない価値をもち、金銭に換算できないからです。
教育は魂を育てることである。
このことを今日、教師たちは思い返すべきです。
師とは、逆境に屈しない気高い精神をもち、真実の心をもった存在でなければなりません。
学問とは、そういうものなのですが、今日、その理念は、遠くに失われています。わが流儀、五心朝天法は、陰陽師の法ではありますが、心の法則を説きほぐし、魂の哲学を探求します。
そして人格と魂を磨き、修練するという古流神道の世界です。
道を求める者は、いざ来たれ、です。

# by toukokira-kira | 2019-04-25 22:47 | Trackback | Comments(0)

治療と波動

治療家への不安をもっていると、それが現実化してよい結果を生まないことがあります。
信頼関係がないと、よい結果も、奇跡も起こらないということです。
治療においては、ラポール関係が最強の要素となります。
なぜならば、治療中に患者がよい波動を出してくれると、案外すべての治療がうまくいきます。
これは治療の鉄則、法則ですから忘れてはなりません。
患者も心から信頼している治療家のところへ行くとよいでしょう。
ラポール関係があると、その後に起こるはずの患部の問題がおきにくくなります。
治療家と患者の目に見えない心の交流が治療の成否に大きな影響を与えているのです。
よい波動の交流が大切です。
治療には、技術もさることながら、人間のもつ根源的な波動である相互信頼が不可欠といことです。
心技体が大事ということです。
信頼関係ができていない初診の人には、手を合わせる祈りのイメージが大切となります。それが相手の無意識に伝わるからです。
その形からラポール関係と同じような効果が生まれます。波動というのは、少しの気づきがあると、大きく増幅されていくものなのです。
気づきが気づきを生むのです。
信頼の波動というのは、それほどに強いパワーを発揮するものなのですよ。
ラポールが第一ということです。


# by toukokira-kira | 2019-04-25 12:15 | Trackback | Comments(0)